(「平治の乱」に父「義朝」とともに敗れ、「頼朝」の伊豆配流に伴い、比企掃部允(ひきかもんのじょう)は妻と武蔵国比企郡の郡司職につくため下向した。
二十年におよぶ配流生活の頼朝を支えた。頼朝の乳母を務めた関係からだった。夫の死後「比企尼」は甥の「能員」を嫡子として比企氏の家督を継がせた。
「蛭の小島」と言われているので、湿気の多い蛭が多いところと思われがちですが、食事は山海の珍味等なんでも食べられ、自由に動きまわれたようです。
比企一族の屋敷があった鎌倉時代に「比企能員」は「源平合戦」から「奥州平定」等で功績をあげ、なかなかの剣豪だったのでしょうか、頼朝の信任を得て御家人となった。
「吾妻鏡」に頼家誕生に関する記述がありました。 寿永元年(1182)三月九日「御台所」(北条政子)の御着帯がおこなわれた。「千葉常胤」の妻の孫「千葉胤政」を使いとして、御帯を献上した。
「武衛」(源頼朝)がお結びになった。後に「丹後局」が食事の給仕をした。
寿永元年(1182)三月十五日「鶴岡八幡宮」から「由比浦」に至る曲がっているいる道を直して参道を造った。御懐妊を期に「武衛」は自らとり行われ、「北条時政」以下の者も土石を運んだ。
|