「吾妻鏡」にこの記述がありました。
*寿永三年(1184)四月二十一日。頼朝は義仲がいなくなった今義高を生かしておく事は出来ない、よって誅殺するべきだと内々にきめられた。女房等この事を聞き姫君御方にお話しになり、二十一日の暁、義高は女装し大姫の女房達に囲まれ、蹄を綿で包んだ隠しておいた馬で脱出した。「海野小太郎幸氏」は義高に相替わり独り「双六」をしていたが、夜になりこのこと事が露見し頼朝公はお怒りになり、軍兵を方々に分け討ち取るよう仰せつけた。
*寿永三年(1184)四月二十六日。「藤内光澄」が戻ってきて、入間河原にて義高を誅殺したと報告した。姫君はこの事を漏れ聞き飲食を断ち、日を追って憔悴していった。
(義高の墓といわれている木曽塚が大船の常楽寺にあります。)
*文治元年(1185)四月十一日。 「勝長寿院」の上棟式がおこなわれた。頼朝は現場に出向き見守っていた。この時、西海において平氏を壊滅させたとの知らせを聞き、八幡宮に向かって座られ感無量の様子だった。
*文治元年(1185)十月二十四日。 頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立。今日「勝長寿院」(南御堂)の供養が行われた。本覚院僧正坊公顕が二十人の僧を連れてきた。総金色の阿弥陀仏で「成長」作の御本尊であった。
*文治二年(1186)四月八日。 頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参詣した。 その時「静」に舞曲をさせる為舞台にお召しになった。「工藤祐経」が鼓をうった。「畠山重忠」が銅拍子を打ち、「静」が歌いだした。
よしのやま みねのしらゆき ふみわけて いりにしひとの あとぞこひしき
しづやしづ しづのをだまき くりかえし むかしをいまに なすよしもがな
*文治二年(1186)五月十七日。 大姫君が邪気退治の為「勝長寿院」に十四日間お入りになった。
*文治二年(1186)五月二十七日。夜「静」が大姫君の願いにより「勝長寿院」に行き芸を披露した。
今跡地は開発され住宅が建ち並び、面影はなくせめて跡地だけでも残っていればとおもいます。
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