坂の下「五霊神社」の祭神「鎌倉権五郎景政」の血をひく「大庭景忠」の子・景義・景親・兄弟は相模国の武士だった。「保元の乱」で「源義朝」の配下として参加した。
兄の景義はその戦いで「源為朝」の矢に当たり片足が不自由な身となり、家督を弟の景親に譲った。景親は「平治の乱」でも義朝に従い戦ったが義朝は敗死して源氏は没落した。 弟の景親は「平清盛」に捕らわれたが景親の武勇に免じ許され平家の忠実な家人となった。
*治承四年(1180)八月二十日 伊豆・相模両国の御家人を率いて伊豆国を出て相模国土肥郷に向けて出発した。従ったものは北条時政・宗時・義時・安達盛長・大庭景義・ほか四十数名と「吾妻鏡」に出ています。以下に景義(能)に関係のある項目を拾い出してみました。
*治承四年(1180)十月九日 頼朝の邸宅の工事を奉行した。急ぐため、山ノ内宅を移築した。
*治承四年(1180)十月二十三日 懐島郷を安堵される。
*養和元年(1181)四月一日 鶴岡八幡宮寺境内に荊がはえていた為一日中掃除をしそれを奉行した。
*養和元年(1181)五月二十四日 御所の近くに大姫の「子御所」・「御厩」の建築場所を何処にするか奉行した。
*寿永元年(1182)四月二十四日 鶴岡若宮近くの「田」を「池」に改めた。景能が奉行した。
*文治二年(1186)十一月十二日 若公(頼家)が鶴岡八幡宮を参拝された。その後景能が食事を差し上げた。
*文治五年(1189)六月三十日 武家の古老として奥州征伐について相談され、綸旨(蔵人がつくる命令書)が下されなくても早く出発されるよう進言した。頼朝はたいそう感心した。
*文治六年(1190)十月三日 頼朝初めての上洛のとき鎌倉を出発し、夕方相模国「懐島」に泊られた。景能の居館にて御食事をされた。
*建久二年(1191)八月一日 新造の御邸で酒宴がおこなわれた。景能はその席で「保元の乱」の経験談と「弓」及び「馬」の重要性を語った。
*建久四年(1193) 景能出家をした。
*承元四年(1210)四月九日 「大庭景能」死去。
頼朝の挙兵に早くから参じていた兄景義は御家人になり鎌倉幕府に仕えて長寿を全うした。茅ヶ崎市円蔵の懐島館址の「神明大神宮」に祀られています。
嫡男「大庭景兼」は「北条義時」に仕えていたのでしょうか、「和田義盛」の乱で義盛側に付き「北条義時」に滅ぼされた。
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