鎌倉好き集まれ!山田海人さんの鎌倉リポート・第5号(2005年5月9日)

鎌倉の人は目が悪い?

明治10年発売の岸田の目薬

鎌倉の人は目が悪い?

 鎌倉の浜辺を歩いていると時折目薬のビンが落ちています。 鎌倉の人は目が悪いのでしょうか?

 日本で最初にガラスビンの目薬が誕生したのは、明治10年発売の岸田の目薬「精錡水」です。当時の目薬は小さなガラスビンにコルクの栓がしてあって、ガラスの管に目薬を入れて指でフタをし、目の上で指を離して液をたらしていたようです。左の写真が貴重な日本最初の目薬のビンです。透明なビンでエンボス(ガラスに文字が浮き出ている)によって「岸田吟香」と書いてあります。

 縦書きの文字ですから問題ないのですが、もし横書きならこの時代「香吟田岸」と右から左へ書かれていた(右横書き)はずです。明治から昭和二十四年までは「右横書き」で屋号や新聞が書かれていました。昭和二十四年から省令で現在の「左横書き」が定められています。

 話はそれてしまいましたが、目薬が紫外線で変化しないようにコバルトブルーの目薬も使われていました。それが写真の「不可飲」飲むにあらずと書かれた目薬です。間違って飲んでしまった人がだいぶいたのでしょうね。

 そのうち、もっと確実に目にしずくが垂らせる目薬のビンが開発されました。それが両口式点眼瓶で、昭和7年ごろから発売されました。これだとガラス管もいらずに目に点せるので便利になりました。 私も子どものころにこの目薬を使っていました。 今から考えると衛生状態も悪く“めやに”が出たり、目がごろごろしたり、ゴミが目に入ったりと目薬の世話になる機会も多かったように思えます。

 ガラスビンから今のようなプラスチックの両口式点眼容器に替わったのは昭和37年ですから85年ほどガラスビンの目薬が使われていたことになります。

 鎌倉の浜でこれだけ目薬のビンが拾われたことを考えると、鎌倉の人は目の悪い人が多かったのでしょうか? 著名な文士が目薬をさしながら原稿書きに追われていたのかと想像すると少々滑稽でもあります。
 

右が「不可飲」の目薬 中央は精神薬と書かれた怪しい薬ビン
左はコバルトブルーの割れたビン

両口点眼瓶 出始めのビンにはエンボスで商品名が書かれていた
右から2つ目 ROHTOと書かれている。