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リポート |
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もちださんの鎌倉リポート No.1(2007年9月8日) |
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| やぐらとは何か・1 |
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誰もいない山道をどこまでも上がってゆくと、木の間から青空の切れ端が浄土のように澄んで見える。頂につくと海が目の高さにせまっている。鎌倉の海は南向きだから、太陽が海面をどこまでもギラつかせ、空気遠近法を破壊してまるで吸い込まれるようだ。町を囲む山々が蓮台で、この海こそが本尊だと誰かが書いていた。 |
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鎌倉が、亡びたそのままの姿をとどめているのは山、だろう。小さな切通しの廃墟は敵が通れないように掘り崩し、土丹を放り込んだりしたまま、侍たちは去っていった。「もうこの町はだめだ」と先祖の骨壷をもって地方に帰っていった者も多かったはずだ。 |
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百八やぐらの第20穴は、電柱工事で天井を掘り抜いてしまい、たまたま地中から現われた。まだ白漆喰で描かれた月輪がくっきり残っている。筆の跡さえ感じられる墨彩は阿弥陀の種字。月輪にも五輪塔にも、血糊のような赤紫のカビが点々としている。 |
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やぐらは、もともと「磐坐(いわくら)」といって岩に宿る神の座だった。それがいつしか仏教に習合し、経や舎利を収める場所となった。平安時代の歌集「いほぬし」にみえる紀州花ノ窟(三重県熊野市)は、もともとイザナミの命の墓であるとされたところで、そこに「弥勒ほとけの出で給はむ世にとり出だし奉」るための経典を埋める人々が群れをなしていたという。 |
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春日の地獄谷でも臼杵磨崖仏でも、こうした弥勒・浄土信仰が盛んだったが、いつのまにかそこは、神ではなく僧俗の葬送の地となっていた。信仰はずっと私的なものになり、しだいに地蔵や閻魔十王に救いを求めるようになる。戦乱の世、人々の願いは父母や先祖、自分自身の死後の冥加につよく傾いていったのだ。「初七日」や「十三回忌」などといって、その思想はいまものこっている。亡き親族のための供養を「追善」といい、自分のための生前供養(生前葬)を「逆修」といった。 法舎利(お経)ではなく、遺骨や追善塔を直接岩倉じたいに封じ込めるようになったのが鎌倉のやぐらの特色で、石窟寺院というより、これはほとんど納骨所、墓である。時代が下るごとに営まれる規模が小さくなり、刻まれる装飾もなくなって密閉度が高まっていくらしい。祭祀場とか集団墓地のような、再生可能な機能は退化していくのである。 |
| No.2 |