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リポート |
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もちださんの鎌倉リポート No.11(2007年11月25日) |
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| 信仰について・2 |
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長谷トンネルを抜けた常盤のあたり、つまり「樹ガーデン」の付近に「一向堂」という地名が残る。これは北条貞時の内管領・平頼綱が信仰した真宗の念仏堂があったところだという【注】。頼綱、といってもなかなか馴染みがないかもしれない。『とはずがたり』の筆者二条が鎌倉でたずねた綾羅錦繍の金ピカ御殿のあるじ、都から贈られた妻の十二単を裏返しに仕立ててしまった、あのおっさんだ。 「金持ちやエリートは自力で善をおこない、いくらでも成仏できる。しかし教育もない貧乏人はまず悪いことしか出来ないので、阿弥陀如来は、そういうかわいそうな人を優先してまっさきに救おうと願をお立てになった仏である。だから信心もなにもないわたしたちこそ、救われる」。・・・一向俊聖という遊行僧は「畜生法師」と自称さえしていた。頼綱のような権勢を極めたものが、そんな会に入ってひたすら「他力」を信じ、念仏にはげんでいた。 |
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旧仏教を「顕密体制」という。頼朝や義時は宮廷から呪詛されていたため、これに対抗する密教修法を鎌倉の公立寺院の中心にすえた。鎌倉時代の禅寺は当初、栄西の伝えた天台葉上流の密教が表看板であった。奈良から伝わった律宗もおなじように、おもてむき「鎌倉鎮護」をなりわいとした。 座禅とか念仏、戒律とかいう個人の信仰は内行、つまり私的なものであって、もともと「怨敵退散」や「雨乞い」などを祈る公的な信仰とは次元を異にしていた。他宗を誹謗中傷し排斥するような過激なカルトでなければ、むしろ公に容認され、念仏でも、大仏をはじめ多くの大寺院が積極的にいとなまれていた。日蓮に怒った頼綱や浄土僧らは、おそらく自分たちの思想への「罵倒行為」そのものに過剰反応したらしい。けして和解に至ることはなかったが、いくどか幕府が日蓮に対話を求めたふしもないわけではなかった。 |
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建長寺の本尊は斉田地蔵といって、ちいさな守り本尊(風入れのさいに公開)を納めていて、悪人の命を救った伝説があった。もちろん日本独自の信仰であるため、兀庵普寧(ごったんぶねい1197‐1276)という中国僧はけして拝まなかった。中国の禅宗では地蔵の地位は低く、自国の太った仙人・布袋こそが「最高の羅漢・弥勒の化身」と考えられていたからだ。しかし、兀庵のパフォーマンスはうけいれられず、やがて異国のスパイという心ない風説に激怒、中国に帰ってしまった。これが俗にいう「ごった返す」という言葉の語源であるなどと、まことしやかに伝えられている。 地蔵はもともとインドの神(クシティガルバ)で、地天とか地蔵王菩薩とかいうわけのわからないものだったのを、盆の行事と結び付け、中国人がフューチャーしたものだったが、時代とともに日中での受け止め方に大きな懸隔ができていたようだ。 |
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宗教は、ただ新しいとか舶来だからと言う理由では定着しなかった。とても知的エリートとは言いがたい武士たちの私的な信仰をとらえたのは、やはり「地獄」であり、簡単な方法ですみやかに救われるという「易行」だったとおもわれる。 浄土系の寺号をもつ浄光明寺や称名寺などは現在、真言宗(泉涌寺派ないし西大寺派)になっている。この浄土宗は真宗などの一向衆系統ではなくて、北条朝直(大仏氏)や執権経時に尊崇された記主禅師こと然阿良忠(1199-1289、鎮西派)ら、顕密兼学のながれをくむ。禅、律、密教修法などもおこなう諸行本願義、つまり「自力で成仏できる金持ち・教養層」の救済を容認したものだった。とうぜん、はじめに権力者に後援された念仏宗とはこれであって、諸宗兼学の寺院であったから、現代の分類ではこうなることもあるらしい。奈良などでも新義真言宗になった浄土寺院はすくなくない。 |
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浄光明寺の発願・北条長時(赤橋家)は極楽寺発願・重時の子。極楽寺もその名の通り当初は浄土寺院を目指していたのだろう。長時の弟・業時は忍性を招いて浄光明寺のとなりに多宝寺(廃寺、現・妙伝寺)をたてている。 執権経時の勧めで記主良忠がひらいた佐介蓮華寺は材木座蓮華院光明寺として移転、こちらはいまも浄土宗関東十八壇林の大寺院である。また北条朝時(名越家)の子・良弁房尊観(1239-1316)は良忠の弟子となり、いまの大町・安養院のところに善導寺をたて名越流という念仏教派をひろめた。当時の繁華街のはずれにあたる。この派は「一念義」といって、なんども念仏ばかりしなくてもいちどで成仏できる、余裕があれば別の仏教作善をおこなうべきだ、との立場をとった。 |
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鎌倉時代は百家争鳴の時代であるとともに、多宗兼学のブームでもあった。身分格差はなるほど大きかったが、宗派の垣根はあまりなかったようだ。法華宗でも真言梵字をさかんにもちいているし、日蓮も親鸞も京や南都の寺々の学恩をうけて宗を興している。日蓮の自筆書状には、ライバル忍性らが祀っていた清涼寺式釈迦の由来を丹念に説いたものもある。しかも流された佐渡で書いたものだ。 仏教では、異論を排斥することを「折伏」というが、「摂受」といっておおらかに受け入れる心ももっていた。偏見と歴史とは、まず別のものらしい。 |
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