
 仏法寺跡からみえる坂ノ下の防波堤。この崩壊面の先はかつて大門におりていた部分と推定され、稲村道の断崖の下はすぐ海だったようだ。
|
|
 |
坂ノ下のパークホテル付近は現在埋め立てられているが、おそらく当時は稲村道が通っていた断崖の下に、ごくせまい浜地があっただけだろう。北条氏は稲村道のスロープはもちろん、その崖下の砂地にまで逆茂木をかさねていた。新田方はまず、こうしたバリケードを撤去する必要があった。霊山の激戦の最中、岬に近い側から綱などにすがり付いてひそかに波打際にまわり、月明かりの中、逆茂木を壊した工作部隊がいたかもしれない。
もちろん当初、波打際を突破できたのはごく少数だったろう。北条側は軍艦をうかべて横矢を射たというが、薄明かりのころ敵味方斬り合いになっていたばあい、沖からのめくら矢はあまり効果的ではなかったはずだ。坂ノ下から飯島にいたる現在の浜の総延長よりひろい2500mもの干潟、というのは伝説に過ぎないとしても、崖下は意外に盲点であって、市内側や山の上からはよくみえないから、援軍を送るにも手遅れになった部分があるのかもしれない。潮騒がおめき声を消していた。21日、すでにここを通り抜けた一部の名も無き勇士たちが、稲村ヶ崎伝説のルーツになったとおもわれる【注】。
|