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もちださんの鎌倉リポート No.29(2008年4月19日) |
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| 流されびと・2 |
頼朝に「日本一の大テング」といわれただけに、後白河院には政敵もおおかった。清盛まで書いてあるのに、公卿はおろか二条天皇、六条天皇の名がない。二条天皇は子、六条は孫であるが、その在位期間、朝廷は後白河院政を否定して政治的にはげしく対立、院の近臣・平時忠を流罪にしたかと思えば一転、平清盛を太政大臣につけるなど混迷の政治で禍根を残した。院にとっては恥辱の時代だったのだろう。 源平のたたかいも元をただせば無能な政治家たちのいさかいに翻弄されただけであり、武士たちはむしろ犠牲者・・・。歴史の裏側をすべて知っている者の、そんな忸怩たる思いも読み取れるようなきがする。 |
ふるくは醍醐天皇の延喜の治に対抗して摂家が菅原道真を配流、不審な出生によりおさなくして即位した朱雀天皇の時代にも、平将門らによる大乱がおこった。将門はもともと関白忠平の家人だったという。天皇親政にたいする巻き返しとして、摂家派の受領や武士たちはかなりあぶない橋を渡り、相当あくどいこともやった。ついには忠平もかばいきれなくなり、はしごを外された将門は暴発、切り捨てられた。「秘書が勝手にやったこと」。・・・権力の非情はいつの時代でもおなじことだ。 |
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藤原道長の全盛期には、摂家派の侍たちも繁栄する。平井(藤原)保昌という武将は盗賊「袴垂」の兄、といわれながら受領を歴任し、五条の大邸宅を家司としてあずかり、和泉式部という当代一流の超セレブを妻に迎え、日々風流なうたげをたのしんだ。酒顛童子や金太郎伝説で名高い摂津源氏の源頼光も実在の人物。式部の友人で百人一首でも知られる歌仙・相模はそのむすめだとか。国司としても有能だったらしく、大江匡衡という実直がうりの文人がとなりの国の国司となって現地豪族との対立でなやんでいるときにも、しんせつに相談に乗り、口利きしたりしている。 こうした武士の栄華は摂関家の家人(侍)であったがゆえだ。摂家と対立する院の近臣として成りあがった平忠盛は「殿上の闇討ち」など、貴族からの露骨ないじめにあう。「平氏以外は人非人(人間のくず)」という不信感、みずからの欲望の赴くがまま自分たちを利用し翻弄する貴族たちへのはげしい復讐の念は、まず平氏がいだいた。しかし、用済みになったら切りすてられる、という感覚は源氏にとっても同じだったに違いない。頼朝が挙兵した伊豆はこのせりふを残した平時忠(清盛の義兄)の知行国だった。時忠の息子のひとり(時家=信時)はなぜか頼朝に味方し、やがて近臣になっている。 |
まずは巨大な政府機関を擁する朝廷、貴族とのかかわりをさけ、地方にとどまり、ちいさくとも手作りの権力をのぞんだ。奥州藤原氏が一定の自治権を容認されていたように、私的な封建支配には前例がなくはなかった。 「幕府」は無能力な朝廷に代って治安をまもる自治警察のようなものであり、基本的に「謀反人の旧領地」を中心に地頭銭というみかじめ料をとっていたにすぎない。ただ、地頭(追捕使)たちをけして朝廷に任命させなかっただけだ。この点だけは、厳密に朝廷を無視した。朝廷側の軍事警察である判官(衛門府尉官≒検非違使)に任命された義経の行為が兄の逆鱗にふれたのはとうぜんのことで、なぜならずばり、その役目をこそ有名無実化し、「幕府」にとって代えようとしていたのだから。 |
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「幕府」とはほんらい右大将頼朝のことであって、近衛府長官(=大将、1190任官・即辞任)の雅号を幕府とよんだ。のちには「征夷代将軍のこと」、あるいは「日本を統率する武士政権のこと」といういみに用いられてゆくが、字義としては正確ではない。「関東」「鎌倉殿」などという呼び名のほうがふつうだった。 1180年、院の密宣や以仁王(後白河院皇子)の令旨をもらった頼朝は事実上、かってに将軍や惣追捕使をなのってしまう。したがって「日本国惣追捕使・惣地頭(1185勅許1190拝任)」「征夷大将軍任命1192」などという朝廷からの追認はまったく無意味とする説や、いや追認という公的な言質があったからこそ、幕府権力は有事における緊急措置的な暫定政権から飛翔して永続しえたのだ、とする説がある。学校教育では便宜的にイイクニツクロウで統一しているが、幕府成立をいつにおくか、その時期は諸説まちまちだ。 |
頼朝がめざした「幕府」は、たぶんそのような、朝廷から与奪されるたぐいの権力ではなかった。頼朝は鎌倉の「内裏」にあたるぶぶんに、人間ではないものをおいた。国家の宗廟・石清水八幡宮の分社、鶴岡八幡宮である。神からあたえられた権力はけして裏切らない、頼朝は、そうかんがえていたにちがいない。 |
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