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リポート |
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もちださんの鎌倉リポート No.3(2007年9月10日) |
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| やぐらとは何か・3 |
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やぐらに詳細な碑文が残っていることはほとんどないが、金沢称名寺には紙背文書として北条氏の追善願文のたぐいが伝わっている。それによれば、やはり伝統的な南都仏教の経塚信仰同様、弥勒による救済が筆頭に上げられ、それは5670000000年後という遠い先であるので、現世では阿弥陀の救いも求める、という考え方であった。 |
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百八やぐらに刻まれたおびただしい梵字は、大日とか釈迦、薬師とバラエティに富んでいるが、それらは追善供養のための「十三仏」であって実体はすべて閻魔十王や地蔵菩薩と同じもの(本地)にすぎない。じぶんは地獄に堕ちる可能性が高い、戦地で踏みしだかれ、満足に死体もあがらないかもしれない。そう自覚した侍たちは、すべての仏たちに地蔵や閻魔に化身してもらい、とりあえずいま、輪廻の耐えがたい苦しみから救ってもらうために祈ったのだ。 |
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地蔵・閻魔信仰は道教にむすびついた中国の俗信であるが、日本ではインド密教に還元し、複雑に再構成されたかたちで独自の流行を見た。のちに定型化した狭義の十三仏信仰は奈良に色濃く残っている。 無数の石塔にもいわれがある。むかし父王を殺したことを悔いたアショーカ王が8万4000の塔を供養した。中国での阿育王塔信仰の中心地は浙江省阿育王寺。実朝将軍が「前世に住んでいた」などといって狂信した、あの寺だ。 |
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阿育王寺は栄西・重源らが参禅しただけでなく、古くは奈良時代、鑑真一行などもおとずれていて、称徳女帝の百万塔造立に影響を与えたといわれる。10世紀、現地を治めていた五代十国(分裂唐)の呉越王銭氏が日本に援助を乞うたとき、お礼に送ってきたという特異なかたちの阿育王塔は、時をへだて中世に大流行した宝筐印塔のルーツになっている。 |
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骨肉相食む時代にあって、青臭い将軍の正義感をいさめる側の政子も、義時も、こころに突き刺さるものがあったろう。みずからの父を追放し、甥にあたる頼家、実朝を消した義時も、やがて後妻伊賀氏に暗殺されるという何とも味気ない末路をむかえる。その伊賀氏の父、伊賀前司朝光の墓は百八やぐら近くにあったとかんがえられている。 |
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