
 埠頭や防波堤を構成していた玉石がくずれ、敷き延べられている。かつては土丹(クズ石)を詰めるなどして固めてあったのだろう。
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やがて日本人は、志野や樂茶碗のように、意図的に荒々しい景色をつくり、わびさびを込め、茶陶として尊んだ。超絶技巧的な絵付けや装飾を施す伊万里・鍋島や真葛焼のようなものが開発されてもなお、それらは主に景徳鎮に対抗する輸出用の高級磁器(または鑑賞用陶器)であって、日本人は茶陶をその上においた。どんなに技巧的でも、再現可能なものは職人芸にすぎないという感覚があった。
景徳鎮、というのは明代にさかんになった染付磁器のことで、窯ちかくで採掘される高嶺(カオリン)という可塑性の磁土が決め手となり、全体がガラスと土器のあいのこのような、いわゆる(分類上の)【磁器】が生まれた場所でもある。イスラムの紋様がとりいれられ、呉須(コバルト)によって幾何学的な花紋などが描き詰められる「青花」は元代ころから試行錯誤がつづけられた。
絵付けがはやったことで、雲鶴・牡丹などの単調なレリーフを施すていどだった青磁の魅力は、中国においても急速に過去のものとなっていったようだ。イスラムからは鮮やかな青に発色するコバルトをもちいた瑠璃椀などの先進的な技法も伝わり、いまも灰皿なんかによくみかける、粉青色という鮮やかなみづいろの青磁・青白磁なども大量に出回っていった。宝器としての最盛期は北宋の時代(11世紀・摂関期に相当)とされるが、鎌倉からは北宋の龍泉窯はまったく出ていないらしい。南宋から元・明にかけての青磁片などは、マンネリ化以後の日用品にちかいものだといえる。
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