
 日本仏教には敵味方・人種による差別はなく、法界平等の利益を願った(円覚寺)。
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北条時宗以来、幕府は元の動静を正しく知るため、滅亡した南宋から多くの高僧を鎌倉に呼び寄せ、また元にわたり私費留学した幾多の帰朝僧を登用した。大陸への意志は京の禅寺とはくらべものにならないほど強かった。「東海一■〔さんずい+區=オウ〕集」などをのこした中巖は、留学だけでなく、曹洞宗系統でありながら鎌倉五山に住んだ東明慧日(:元1272-1340)という異色の帰化僧に20年ものあいだまなんだという。
報国寺の開山・天岸慧広(1273-1335)は、1329年、明極楚俊(寧波の人1262-1336)・竺僊梵僊(同1292‐1348)らをともなって帰朝した。中国僧にとって日本行きは、渡りに船の亡命に近かったのかもしれない。かれらもやがて幕府滅亡の戦乱に遭遇するが、帰る国とてなかった。帰れば禅僧たちは侵略者・元を讃えることになるのだし、元はラマ教を崇拝し、中国禅宗はみずから頽廃期を迎えていた。唐代仏教の二大聖地で遣唐僧らがさかんにおとずれた天台山・五臺山は、現在も清代のみすぼらしい建物が点在するのみで、文革以降、復興も進んでいないが、すでに天岸和尚の時代にも、かつての栄華はうかがうべくもなかったようだ。
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