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リポート |
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もちださんの鎌倉リポート No.6(2007年10月1日) |
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| 海の果て・2 |
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史実では、この勝上見ちかくに開山・蘭渓道隆(1213‐78)の庵室があったことを、蘭渓じしんが自分の画賛に書き残している。1246年、来日。宋は契丹、西夏、金にやぶれて臨安府(杭州)に都を移し、すでに「小虫」「江南蛮子」とさげすまれていた。数少ない友好国であった日本では、幕府が天皇の軍を破り1221、あたらしい社会を築きつつあった。 中国がいわゆる「帝国」だった時期はじつはほんのわずかである。漢・唐・元の最盛期がこれにあたり、侵略主義と同時に多民族国家としての融和社会が開けた。漢のばあいは先代の秦がチベット人による征服王朝であったことやトルコ人国家匈奴と融和したことが重要である。唐や元は、その衣装にあきらかなようにモンゴル系国家だった。かつては春秋300国といわれ部族間であい争う習慣(郷闘)がある漢人社会や征服地を、よそものであるゆえに、かえって公平に纏め上げたのだろう。 |
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明代以降、中国は朱子学という民族主義思想にこりかたまり、強硬な鎖国体制(海禁)に入ってしまう。朝貢しない異民族を禽獣と公言し、「じぶんだけが正しい国」となった。ヨーロッパ人は辟易し、サビエルのような第一線の文化人までが中国をあきらめて日本に来てしまったほどだった。ここでいう「帝国」とは世界的規模の経済覇権のことを言い、アメリカがそうでないように、皇帝政権をさすことばではない。世界の先進文化はもはや中国には集まらず、生糸や壷以外に、めぼしい地場産業も育たなかった。 十字軍時代のヨーロッパは、リーグニッツの戦い(1241)で伏兵・蒙古の脅威に直面した。そこで蒙古の分裂に乗じ、近くのキプチャク汗国(ロシア)を牽制するために遠い元や、イル汗国(イランにあった元の姉妹国)に接近しようとした。プラノ・カルピニ(1182?-1252)やルブルク(1220?-93)などフランシスコ会の修道士は陸路はるばるモンゴルに使いした。ギリシャ・ローマ以来、おぼろげに知られていたカタイ(中国)がここではじめて明確な記録にあらわれる。 |
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フランシスコ会は「小鳥に説教をする」場面を描いたあのジオットの美しい絵でもしられる行者、アッシジの聖フランチェスコ(1181-1226)のながれをくむ。宗教改革に先立って旧教の再生が行なわれたのは、日本の仏教とおなじであった。 ペキン生まれの景教徒バル・ソーマ(?-1294)はネストリウス派の中心地イル汗国に帰化してイギリス・フランスなどに使いした。その結果、モンテ・コルビノのジオバンニ(1247-1328)はイル汗国を経由してペルシャ湾から海路ペキン(大都)に至り1294、一代のあいだではあったが、許されて景教徒にカトリックをひろめたという。 |
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ここでいう中国での景教徒とは元朝によって征服地からつれてこられた少数民族オングートのことであって、色目人などとよばれ、いっぱんの原住漢族から恨まれていたので、もちろん明代には生きられなかった人々であった。バル・ソーマが考えていた東西キリスト教連合などというのは、夢のまた夢のことだった。 マルコポーロが黄金の国ジパングのうわさを知ったのはこの頃のことである。元への屈服以降、傷ついた自尊心に由来するルサンチマン=偏狭なナショナリズムにとらわれていった中国とはうらはらに、日本は無政府主義に向かいつつあった。天皇や幕府は権威を失い、上皇(院)は犬とよばれた。貧しいおおくの海民が、中央の制止をものともせずに海へのりだしていった。 |
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十字軍に失敗したヨーロッパ人も、やがて海に出た。アラブの商業利権を横取りするためだった。エンリケ航海王子がアフリカ航路開拓にふみだすのは、室町時代のことである。・・・やがて、名もない一人の日本人、アンジローとだけ伝わるその男がマラッカでサビエルと出会い、東西の歴史がむすばれる。それは1547年のことだ。関東公方府がほろび(1455)、『鎌倉大草紙』が伝えるように「永代、亡所」となった鎌倉の海の向こうでは、新たな歴史が始まりつつあった。 |
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次回は「合戦について」の予定です。 |
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