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リポート |
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もくれんさんの鎌倉リポート No.34(2003年12月9日) |
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| 歴史散策 名越の切通し・住吉城址 |
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法性寺は鎌倉寄りの逗子市にありますが、歴史的に考えると鎌倉の一部になると思います。 日蓮ゆかりの寺として知られています。白猿が額をかかえています。 安房小湊から移り住んで、この付近の岩窟に独居していた日蓮を養うために多くの白猿が裏山を耕して畑を作ったことが、山号「猿畠山」の由来になっています。 松葉ヶ谷の法難の際、日蓮の危機を救ったのは白猿であるあるという言い伝えや、横須賀沖に浮かぶ猿島の由来など、日蓮と猿の結びつきには、秀吉と猿の関りに類似した意図が感じられます。 |
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法性寺の裏山の墓地から、鎌倉時代の軍事遺構【大切り岸】が見えます。 名越の切り通しは鎌倉と三浦を結ぶ要路でした。頼朝の旗挙げ時から彼を支えた三浦一族は、北条氏と共に頼朝の信任を得ていました。頼朝の死後、梶原、畠山、比企といった有力御家人を倒して執権の地位についた北条氏にとって、最後に残った政敵が三浦一族だったのです。お猿畠の大切り岸がいつ頃建設されたのか史料には一切記述がないようですが、恐らく政争が表面化した3代執権泰時の頃ではないかと考えられます。 切り岸の幅は800mに及び、しかも2層3層の構えを持つ点から一種の要塞としての機能があったものと思われます。結局三浦一族は宝治元年(1247)北条時頼と安達泰盛らの策謀により、鎌倉市街の戦いで封殺されたため、この軍事施設が機能することはありませんでしたが、今もその偉容を留め、鎌倉時代前半の緊迫した情勢が伝わってきます。 |
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名越の切り通し 大切り岸の奥に鎌倉七切り通しの1つ「名越の切り通し」が通っています。 名越の切り通しは古東海道として、鎌倉幕府の成立以前に開削されていたと考えられます。 名称の由来は「難越(こえがたし)」であるといわれ、音の「なんごし」が「なごし」や「なごえ」に転訛したようです。同じように鎌倉七切り通しの1つ「化粧坂(けわいざか)」が「険しい坂」から転じたものといわれるように、鎌倉を取り巻く山々が天然の要塞になっていたことを示しています。 真中に大きな石があって通りにくくなっています。わざわざ置いてあるのだそうです。沢山の軍勢が一気に通れないように・・・ こんなところに猫ちゃんが現れて驚きました。きっと飼い猫だったのでしょう、近寄ってきてもの欲しそうでした。かわいそうに・・・ |
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まんだら堂跡 名 越の切り通しの近くにまんだら堂跡があります。以前は「やぐら」と「アジサイ」の名所として、沢山の観光客で賑わっていましたが、平成12年度で閉鎖されています。 今後はまんだら堂の周辺を数年かけて文化財調査し、史跡整備を実施し、やぐら群を中心とした公開を計画しています。と書いてあります。 ちなみに「やぐら」も本当は「矢倉」と書いたそうですが、武器の置き場として矢倉と書いたのが鎌倉ではいろいろ調べるうちに、お墓であることが解ってきて「やぐら」とひらがな書きになったようです。 |
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住吉城跡 (大崎公園から) 正覚寺から城の内核に抜けられる随道があって、随道を抜けたところに住吉城跡がありました。この随道は内側からしか視界が効かないという防御効果があるのです。 10年前には随道のその面白い現象を味わって(入るとき真っ暗で敵が攻めてきたとき、めくら状態)また期待したのですが、下見にいかれた人がその随道が出口(城からは入口)が塞がれていて、住吉城跡にも入れなくなっていたそうです。しかも正覚寺では墓地の拡張工事が行われており、大きく削平された城の縁部が痛々しいそうです。道もぬかるんでいて危険なので、我々は大崎公園から住吉城跡を眺めました。 |
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