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もちださんの鎌倉リポート No.313(2018年10月1日)



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玉縄と新鎌倉


 近年注目をあつめる大船の玉縄城跡。江戸期には「甘縄」と誤り称せられ、訪ねる人もまれだった。オランダの弱体化で新興の異国船の接近がふえてきた18世紀の後半、寛政の改革で国土防衛をとなえた松平定信がここを再発見1793し、要塞建設を計画したことがあった。

 そのあらましは、幕府の役人・森山孝盛(1738-1815)というひとの自伝随筆「蜑の焼藻」(日本随筆体系11)にでている。題名(あまのたくも)は古歌に由来し、「我から」・・・つまり頑固な性格のため出世しなかった、という暗喩。ただいくつかチャンスはあって、玉縄城の発見もそのひとつであった。「箱根を越えて鎌倉を通り三崎に出るついで、むかし甘縄の城跡ありしを、かねて下知はなかりしかども、立ち寄りて見侍りけるに、大手は七曲とて甚だ険しく・・・」。



本丸礎石(中央)ほか
 森山ははじめ、防衛計画などといっても烽火台をつくる程度の話だと甘く見ていた。しかし巡検中の定信に会ってみると、本格的な要塞を計画していると知り、その人物にも感服。やがて三崎・横須賀の視察をまかされるが、立地としては玉縄のほうが優れていると進言、定信も現地をみて「大いに感ぜられて、良き所をこそ見立て侍りつれ、とて賞せられたり」。

 ただ、定信の失脚により要塞建設は頓挫、「今は面白き夢見たるごとき心地ぞする」。森山じしんはその後、鬼平としてしられる長谷川平蔵の後任の火付盗賊改に任ぜられるが、玉縄はふたたび元の寒村にもどった。

 森山はまた、和歌を冷泉為村(1712-1774)・為泰(1735*-1816)親子にならっていた。関東における冷泉歌道の人気はたかく、その莫大な収入を羨んだ日野資枝卿(1737-1801)が為村の没後、和歌添削の免許をとって弟子のきりくずしを図った。為泰卿はきまじめで地味な性格だったから、多くの弟子が日野家に寝返ったという。なかでも宮部義正(1729-1792)は「為泰卿よりこの道の勘当状を送られ、破門せられけり」。



風化した基礎部分
 宮部義正といえば、浄光明寺の為相墓のめぐりの柵を整備した人物。「玉垣は光圀の作」というのは誤りらしく、玉垣には義正親子の名がいまでも読める。光圀のつくった柵にあとから名を刻むことは、ありえない。義正は幕府の和学所に仕えていた関係上、日野資枝の人脈・政治力も無視はできなかったのだろう。資枝は為村にも学んでいたし、実父はやはり名歌人の烏丸光栄、養父は儒学でしられた日野家であるから、才人として朝廷でも一目おかれていたのだ。 

 冷泉家は事実上すでに定家卿唯一の子孫となっていた。宮部は明和の大火1772によって冷泉為村からの貴重な伝書を失い、やがて為村卿も亡くなった。そこで記憶をもとに「義正聞書」を書くのだが、そこに阿仏尼・為相母子の墓所について、聞き質したくだりがみえる。

 為相の墓所について、最大の疑念は同時代資料とされる「常楽記」(中世でもっとも有名な過去帳)に「冷泉中納言為相卿於京都逝去」とみえる点。ただし歴代の冷泉家では「鎌倉での死去」という立場をくずしていないし、「常楽記」にしても、醍醐寺あたりの無名の和尚が各方面を取材して書いたものらしく、疎遠な人物の記事には伝聞にもとづく誤りも散見され、かならずしも正確ではないという。



「ふぢがやつ黄門為相卿御墓」「御玉垣造立冷泉家門人(義正・義直)」
 為相墓の場所を特定できる資料は、三浦浄心「順礼物語」(慶長ころ・レポ233)がもっとも古いと思われるが、現存する古塔はその様式などから足利尊氏が「元弘以来の怨霊供養」のため、観応の擾乱後にたてさせたものとみられ、それがいつしか為相墓といわれるようになり、赤松北条氏の廟所と考えられる網引地蔵もまた、為相にまつわるものと信じられていった。

 水戸光圀は日本朱子学の祖・藤原惺窩の子にあたる冷泉為景と親しく、光圀による整備もまた事実のようで、側らの石燈籠には正徳五乙未年の銘(1715)があり、仁木充長による為相400回忌法要1727のころには九重の石塔があったという(レポ299)。宮部の出身地・高崎藩には定家神社などもまつられ、冷泉家との付き合いは代々深いものがあった。「義正聞書」にも、為相墓について「江戸より近き事に候間、宜しく心付け頼み入り候」という為村卿の直々の遺言が、さも自慢げにしるされている。

 こうした状況をふまえてみると、為泰卿との仲違いは感情的な行き違いと思えてならない。「近き頃、吾処の義政(宮部孫八郎)石の霊垣を建てまいらせぬ。いと物旧りあはれなり」(空阿「後之相模路日記」1792・レポ301)。



七曲と本丸土塁。○は人物のおおきさを示す
 さて幕末に玉縄城跡を尋ねた軍学者はほかにもいた。中津藩士・島津定桓は「甲陽軍鑑」に心酔し、ゆかりの地を行脚した。「甲陽軍鑑」は武田信玄の遺臣・高坂弾正(1527-1578)が語ったものとされるが、「後世に編修・出版した小幡景憲(1572-1663)の脚色・創作がだいぶ加わっている」などの批判も、古来ねづよかった。ただ近年では、語学的な分析から、やはり戦国時代の語法が多いという指摘もなされている。

 島津はまず神奈川から玉縄を見学、藤沢から北上して信玄の「新鎌倉」を見、中依知の蓮生寺に敬愛する小幡景憲の墓を尋ね、そこから激戦地だった三増合戦の地を探って甲州に入り、さらに長篠合戦跡・伊那・碓氷などを巡った。小幡景憲は前述のように「甲陽軍鑑」の編者であり、甲州軍学の祖とされる人物。ただ、江戸初期には多くの没落武士が「御伽衆」として召抱えられようと著述にはげみ、なかには伝奇的な作り話・はったりをかます者もすくなくなかった。したがって原著の存在自体を疑問視し、小幡の偽作を主張する説もでてきたのだ。

 高坂弾正による「原著」はたぶん、あったのだろう。ただし異本も多く、小幡ら後人の加筆を完全に排除できるかというと、そのかぎりではない。



座架依橋(奥)と蓮生寺
○ 永禄の比、北条上総が守りし玉縄の城跡を探らんと欲し、戸塚を過ぎ影取より左に折れ城宿村に至り、郷導を雇い(郷導、名は平十郎、年七十九。城跡の事に委し)、その墟に上る。頗る堅固の地なり。寛政年中、松平越中守源定信朝臣命じて分間図を造らしめ給ひしに、本丸と称するの地、九反六畝ありとなん。その地、旧井二つ、その一つは水、尚あり。

その後ろ山を諏訪の台と呼ぶ。昔日、諏訪明神祠を置く故に、この名ありと云う。今はその祠を山下に移すとなん。その台に登れば、その地狭からず、臨眺極めて曠し。然れどもこの日は陰雲四方に塞がりて遠眺し難し。小田原城西にあり、江の島海南ににあり(江の島は見えずと)、鎌倉東にあり、戸塚子丑にありと云う。

伝えて云く、藤九郎盛長、始めてこの地に築くと。鎌倉志を按ずるに、「関東兵乱記・鎌倉九代記・北条盛衰記等に玉縄の城とあるはこの処なり」と云々。武徳編、并に集成、甲鑑伝義、「甘縄」に作るは誤りなり(甘縄の明神は佐々目谷の南にあれども城地にはあらず)。鎌倉志に所謂、松平備前守源隆綱朝臣の宅地は山腰にあり。和七、略図を作る。日暮れ雨降り、藤沢に到りて宿す。【島津定桓「甲鑑戦跡紀行」1846】



座架依橋から小田原方面を望む
 信玄の「新鎌倉」構想とは軍鑑末書にある、「信玄公、常の御座城は相州星谷に名地有り。この処に馬場美濃守縄張りを以て御普請大いになされ、新鎌倉と名付け御座有るべしと御定め有り。甲府は御隠居所なり。・・・付けたり、新鎌倉へ日本国の大身・小身の屋敷を割り、しかも京・堺の町人さし集め・・・」云々の記述をさす。

 島津は「星の谷の地は座間村の中に在り。ただ星谷寺在る処の地を指して星の谷と称す。・・・土俗皆な曰く、高座郡の中、独りこの星谷寺の地、鎌倉郡に属すと。これ全く野人の語なれども、その来由無きに非ず。蓋し信玄公の新鎌倉を開かんの企てありしを誤り伝うるならん」と伝えている。星谷寺にあるこの石塔には、「奉建立宝篋印塔 宝暦十三歳(昭陽協洽)九月日吉宿 相模国鎌倉郡座間郷 別当妙法山星谷密寺幻住法印智応敬白」云々と刻まれている。

 星谷寺についてはレポ79にもふれた。小田急座間駅近くの河岸段丘にあり、門前を下った旧市街にはかつて市役所もあった。その先、相模川にむかって跨線橋につづき長大な座架依橋をわたると前述の中依知にいたる。信玄は小田原攻めのさい、このあたりに滞在し渡河したという。橋には相模の大凧やら、かつて行き交った帆掛船のレリーフがはまっていて、河川敷周辺にはまだ広大な農地が広がっている。はたして信玄の構想は、真実だったか。小幡による地元(知行地)びいきの、妄想だったのか――。


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