トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第316号 


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もちださんの鎌倉リポート No.316(2018年11月6日)



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古代から中世へ



大塚遺跡
 横浜市営地下鉄・センター北駅ちかくの大塚・歳勝土遺跡は比較的広範囲に保存・復元がおこなわれた紀元前後の弥生集落の跡だが、これでも遺構の一部は削られ、すでに落花生型の環濠集落のうち約2/3は、開発でうしなわれている。

 遺跡は丘陵の上にあるため、高架になった駅コンコース(3階相当)の北側出口からそのまま陸橋をわたって行くのがおすすめ。見学後はゆっくりと長い坂を下れば、無用な登り降りなく歴史博物館の「屋上」にたどりつく。博物館前の交差点には、地域のランドマークとして親しまれる巨大なゴリラの置物「都筑まもる君」が鎮座し、そこから早淵川へ下り対岸左手にみえる森が、1400年後の中世の古城・茅ヶ崎城。ここも整備され公園になっている。

 復元遺跡はどこでも、必要最小限のものしかつくられていないため、「文化に乏しい原始土人」「極貧」という先入観を、強く植え付ける。そこはわたしたちの空想力で補わなければならない。



環濠の内側
 環濠集落(大塚遺跡)には文字通り壮大な空堀がめぐっていて、高地にあることも含め、城郭都市であった。もちろん城内だけで市民が自給自足できたとは到底かんがえられず、いわば「クニ」としての広範なテリトリーをもち、周縁の森に果樹を植え低地に水田をもったり衛星的な小規模集落に多数の農奴をしたがえていたと考えるのが自然だ。「クニ」とはいってもまだ、後世の感覚では郡郷・荘園といったレベルのものだったろうが、巨大国家の成立にはまだ数世紀におよぶ時間が必要だった。

 集落入り口に隣接する台地には、約30基もの方形周溝墓が密集している(歳勝土遺跡)。集落には巨大神殿や集会所とおぼしき遺構はなく、都市内のヒエラルキーにさほど格差はなかったとみられるが、住居趾を約30棟×3世代とすれば、首長墓の数は非常に多い。すなわち住民全体が首長の家族であったのだろう。

 倭王・卑弥呼が都した「邪馬台国」は、魏都・洛陽21城に次ぎ、長安10城をやや上回る七万余戸の巨大都市だったという。女王はまた、その巨大な王畿(直轄領)だけでなく、「投馬国」五万・「奴国」二万をはじめ、すでに数多くの「クニ」の上にも君臨したらしい。倭の大乱をしずめた平和の盟主として、魏が「倭王」と呼んだのも、ゆえあることなのだ。人々が城郭都市に望んだのは、戦乱ではなくそれを抑止する権威だったのだろう。



方形周溝墓(棺のまわりは見学用の断面)
 暴力で成し遂げるものには限界があった。征伐だの反乱だの、そんなことばかりが重視されるが、国家の生成において、対立は例外的な事象でしかない。否定によってのみ革命や創造が起こるなどというのは、幻覚でしかないのだ。原始のクニがやがて国造(くにのみやつこ)・郡司らに継承され、やがて村落や荘園に発達し、武士を生んだ。征服や破壊ではなく、婿入りとか盟約とか、そんな平和的・文化的な推移にも、もっと目を向けるべきだと思う。

 人類はサルの時代から社会生活をいとなみ、狩猟採集を行うためのテリトリーを必要とした。一定のテリトリーで養える人口には限界があり、無所有の時代など存在だにしなかったはずだ。集団で生きるにはまず、おたがいに助け合う互恵制・互酬制といったモラルがかなり厳しく存在したとみなす必要がある。

 縄文文化には地域性もあるとはいえ、日本全土でみてもかなり均質性が高い。土器の模様しかり、土偶やストーン‐サークルなどの祭祀しかり。ひとびとは集団間の抗争を避けるため、共通の祖先・共通の神のようなものを設定した。すなわち、定期的に祭りをおこない、争いのタネとなる土地のめぐみをいったん神の元に返す。「ジャイアンvsのび太」といったような個々の優劣関係や遺恨をいったん断ち切って、すべてを神のものとして公正に取引させる「市」という聖域を意図的に生み出し、ひとまず交易を活発化させていたのだろうと思われる。



炉とか建具・土壁などは一切復元されていない
 古代の遺跡は、中世から現代にいたる都市の「ひな型(template)」としてみることができる。新参者がふえれば余剰人口をやしなうために、産業が発展する。これまで老人や病者らの仕事だった玉磨きや笠縫い・土器づくり・革なめしなどの退屈な仕事も専門化してゆくし、より高度な付加価値をつけて流通を有利にすることが求められる。

 互酬制というのは現代的な慈悲や福祉、依存などというものではない。食うためには対価を支払い、助けた亀は浦島に報いる義務があるのだ。やがて大陸の「奴隷制度」の影響から、農奴(生口・部曲)として売買される者もあらわれる。弥生人は大陸を追い出され、一銭も持たずに渡来してきたのだから、最下層の仕事につくのは必然であり、サルの時代からの「生物的な掟」でもあった。

 弥生文化が、とどこおりなく東北の果ての果てにまでひろがったのは、けして「破滅をともなう暴力」によるものではなかったと思う。開拓がすすみ米作が発展したのは、かれらがともかくも縄文人の指導に従順に従い、あるいは娘を献上するなどして歓心を買い、一般に弥生人とよばれる「農奴層」を地道に拡大させていったからだ。土地の生産力に限界があるいじょう、不必要な人口の拡大は一集落にとって負担でしかなくなる。恩をかえした鶴が去ってゆくように、農奴じしん、あらたな仕事を求めて順次、別のムラへと買われていったのだ。奈良時代にも多くの「帰化人」が開拓の難しい、東国の郡や東北の最前線に移住させられたことが知られる。中世には「人買い」がその役目をした。



和田塚(鎌倉市)。古墳群の跡
 都市民の生活は、従来とおり弓矢による狩猟や採集を基盤にしていたと思われる。世界的にみても王侯が領国支配の象徴として狩を重視したことはまぎれもないし、天皇家がこれをやめたのは仏教以後である。頼朝もまた、伊豆の狩によって同志をあつめ、東国政権掌握後には大規模な巻狩を催している。狩は神々のすむ広大な土地を【領有】する証しであり、米作などよりもはるかに上位の概念だった。農耕にはその土地を借りるという、ぬぐいがたい隷属の要素があったのだ。

 城壁はもちろん不時の戦乱に備えたものでもあるのだが、平時には都鄙をわかち、害獣の侵入をこばみ、選民(市民)と賤民(農奴)とを峻別して反乱などを抑止するものでもあった。たとえば清代の西安では、支配層である満州族と漢人・回教徒のあいだに壁をもうけ、無用な争いをさけたりもした。集落の入り口に墓地をおくのも、縄文いらい、というより世界各地に例がある。鎌倉にもやぐらが営まれたり「晴明石」などの魔よけの厭物・呪物が埋められた例がある。

 都市はやがて王宮へと収斂し、身分制度はより確定的となる。中世における身分制度をよくあらわしたものに「行基式目」というのがある。僧行基に仮託した、衣食にかんする民間法のようなものだ。いちいち身分別に一日に食う米の分量が定められ、「所領」をもつ官人のほうが異様に多く、魚魚もはるかに高価なものが指定されている。その不公平はさておいて、未開人の関心事はただひたすら、衣食の分配に集中していたことがわかる。



縄文時代の甕(町田市役所)
 先史時代といえば、資料の乏しさにつけこんで、なんでも「渡来人」にむすびつけたり、反日運動に利用したりするので、うんざりしている人もおおいのかもしれない。考古学に根拠のない仮説や試論はつきものだとしても、やみくもな「大陸ロマン」ばかりが浸潤し、「近隣国条項」「国策」などとしていつしか強制力をもつようになってしまえば、そんなものは学問の自由に背反し、進展を阻害する障害物でしかなくなる。

 たとえば「放射性炭素同位体(C14)年代測定法」でも、日本の遺物にかんしては「中国より古いと申し訳ない」などとして、独自のバイアスをかけ、年代を大幅に引き下げて表示する慣行がある。C14はどうなるのかというと、「日本にだけ降り注ぐ特殊な【海洋ビーム】」なるものが減衰期を狂わせているなどと説明し、正当化してきた。

 「目の細い私は弥生人」「大陸から朝鮮半島を経由してやってきて悪しきアイヌを退治し、国づくりを指導した尊い天孫族」・・・そんな個人のさもしい顕示欲から歴史の偽造がはじまり、やがては過去と現代の境目までが見失われ、大陸侵攻の国策とむすびついてファシズムを形成した、そんな時代もあった。いわば「予断」が先にあり、日中同祖論のような極端な解釈だけが集められてゆく。でたらめでもかまわない。メディアのキャンペーンに乗り遅れさえしなければ、それでいいのだ。



巨大なやつ
 「全知全能の天孫族」なるものが、武力や文明という優越性のもとに縄文社会を征服し、縄文人も喜んで迎え入れた――などという仮説、というより「ばかのひとつ覚え」のような妄想は明治以来、大日本帝国が中韓を支配し、知恵のおくれた土人たちを指導・開化すれば心から感謝されるといった【近代の神話】を、さながら投影したものにすぎない。

 天孫降臨神話に依存した、手前勝手な妄想を、あたかも「絶対的史実」とか「みずからの成功体験」であるかのように措定し、戦後もなお「内鮮一体」「五族協和」「大東亜共栄圏」等のノルマに酔いしれ、やれ中韓に日本の高度なテクノロジーを教えよう、やれアジアに巨額の援助をして感謝されよう、などとはしゃぎまわるメディアの、なんと多いことか。当の中韓が大日本帝国の「援助」を感謝し、「喜んで迎え入れた」ことなどあっただろうか。そもそも天孫降臨神話など、昭和天皇が人間宣言のなかでとうに否定している【空疎な物語】なのだ。タカマガハラとはたぶん大和で、4C前後にはじめて南九州に遠征したていどの実話を反映したものでしかないと思う。

 世界的に見て、移民や異文化に対する拒絶反応は並大抵のものではない。どれだけ美化しようとも、多くの移民は低賃金労働を受け入れ、どこまでも従属・従順をよぎなくされるのがふつうだ。それでも、【本国の悲惨な生活】にだけは、けして舞い戻ろうとはしない。柳宗元(773-819)が「捕蛇者説」にのべているように、たとえ毒蛇を獲らされようと、それは変らないのだ。


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