トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第325号 


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もちださんの鎌倉リポート No.325(2019年1月8日)



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一条山荘・1


 二三年前から公開がはじまった浄明寺(地区)の一条恵観山荘。以前は「茶道宗徧流不審庵・止観亭」だとかなんとかいっていたところだ。金持ちの秘密クラブだったところを開放した、新手の甘味茶寮かなんかだとおもっていたが、そこそこ歴史のある建物があるらしい。

 山田宗徧(1627-1708)というひとは京都の東本願寺派の僧侶の子だが、千家のでしとなり、三河吉田藩をへて江戸で死んだ茶人。赤穂浪士とも関係があったとか。戦前戦後、末裔の寅次郎が実業家として成功、家元として流派を復興したという。ソフトバンク孫正義ら限られた人物のみが招かれていたというのだが、まあ、これだけではやはり歴史的遺産とはいいがたい。ただ、ここの茶亭は、修学院・桂離宮なんかと同時期に建てられた「三山荘」のひとつ、京都西加茂の一条恵観山荘1642を移築した、現存唯一の遺物なのだとか。



移築された「茶屋」と前庭
 一条家は由緒ある摂関家で、一時期皇族の血が入り広大な別邸がいとなまれた。やがてその高貴な血筋は分家「醍醐家」へ、かの山荘とともに受け継がれ、のち広大な敷地が売却されたあとも中心建物はのこっていたらしい。明治に暗殺事件などのスキャンダル、戦後にはオランダ政府によって当主が殺害されるなど、数々の不幸があり、ついに山荘はゴルフ場開発に巻き込まれる。そこで茶屋や庭石といった貴重な文化財については上記家元がひきとり、鎌倉にうつされたのだ1959。その際の解体復元工事がきっかけで調査がすすみ、茶人の私邸内建物としては京都にある裏・表千家の両屋敷に先駆け重要文化財にも指定された。

 「茶関白」といわれた一条恵観(1605-1672兼遐・昭良)は、修学院離宮造営でしられる後水尾院の実弟、桂離宮の八条宮智仁親王には甥にあたるのだが、和歌などの才のみならず、茶の湯を金森宗和という大茶人にまなんだ。その「宗和好み」とつたえられてきたことも、この茶亭の価値を大きくしている。

 恵観は茶道具を置く台子を宗和に新たに注文したところ、台ではなく、柄杓の柄の長さに問題があると見て、即座にほんの僅か、短く切って示した。その当意即妙な美意識と欲のないそぶりに、恵観は大いに感じたという。わび茶は利休いらい貧弱な町屋で数寄者同士の展開はそこそこ知られているが、貴人の大邸宅における大規模茶会ではどうだったかなど、未解明なぶぶんも少なくないという。



二階棚と下地窓(障子窓の裏側)、南庭の飛び石
 金森は飛騨高山の大名の出で、代々信長などに仕え、利休・古田織部・小堀遠州などと交わり、茶道の達者として知られた。宗和も千道安に学んだというが、織部・遠州の好みに似ていたとも。ただ西加茂の恵観山荘が徳川の助力で建てられたとすれば、桂離宮の茶亭などと同様、おのづから遠州好みになったとも思われる。

 西加茂山荘の「御数寄屋」では宗和の茶会もひらかれた1648。往時の建物の評価として「二階の袋棚、その前の下地窓なんどは金森宗和の物数寄と申し伝へたり」「南の庭へ出でては、伝ひの石どもの物数寄、みな宗和にて侍るとぞ」という醍醐冬香の証言ものこるという。

 古図によれば、住居棟(書院)の南に渡り廊下で結んだ客人・宴会用の建物「数寄屋」があり、当初は奥の四畳を「囲いの間」として茶室に利用した。今のこる止観亭はその「数寄屋」の母屋部分がほぼそのまま伝わっていたものだ。「小間囲い」とは、もともと建物の一部を障子や衝立などで囲って草庵になぞらえたものという。ただし修学院離宮などでは建物全体を「上の茶屋」「下の茶屋」などと呼んでいるから、数寄屋そのものを茶屋、ないし茶亭と呼んでいいわけだ。



苔の色は雨上がりがいいかも
 まずは、恵観の生い立ちについて、皇室の歴史をざっと触れておこう。

 南北朝の争いは、交互に即位するという「迭立」の状態に戻す、という形で一応の決着をみた。しかし室町将軍・足利義満はその約束を守りはしなかった。ただ、義満が後見した後小松上皇の皇子がみな早世したため、かつて南朝に拉致されていらい不遇をかこっていた崇光院のまご・貞成王という者が探し出される。貞成はすでに中年となっていたが、上皇養子として親王宣下を受け、伏見宮家を設立。その子・後花園天皇によってかろうじて皇統が嗣がれた。

 しかしその晩年には応仁の乱が勃発、いきなり収入を断たれた皇室は衰微の一途をたどる。上皇・天皇は将軍宅に同居。やがて公卿は離散、伏見宮家の皇子などは疎開先の寒村で鍛冶屋のてつだいまでしていたらしい。また常盤井宮家は戦国の動乱のなか、自然消滅してしまう。神道では卜部氏という名もなき神官が「吉田神道」なるものを立ち上げ、宮中にも幅をきかせるようになった。皇室は後北条・越後上杉ら戦国大名にしきりに寄附をせびり、いわゆる「上洛」の流行をうむ。信長は正親町天皇の皇嗣・誠仁親王を擁立しようとし、秀吉はその子・後陽成天皇とその弟、八条宮智仁親王にいれこんだ。当時の朝廷には、どのみち天下人の意向に身をゆだねるよりほか、選択肢はなかった。



「くぐつ舞わし」の杉戸絵は見事な寛永顔
 後陽成天皇は秀吉の養女として入内した中和門院(近衛前子)の生んだ皇子、後水尾天皇に譲位1611。またその同母弟を、子息にめぐまれなかった摂関家の近衛・一条家にそれぞれ送り、跡継ぎとさせた。この養子というのが近衛信尋と一条兼遐、のちの恵観なのだ1609。

 すなわち江戸前期の天皇家は、そのはじめから豊臣寄りの人脈がつよかった。だから徳川もあわてて禁中並公家諸法度を定めたり、後水尾天皇に将軍秀忠の娘(東福門院)を入内させ、後宮にまで干渉を強めた。しかし後水尾天皇はますます意固地になって、徳川の血をひく幼い皇女に突然譲位し、これ見よがしに風流生活にはいってしまう。みずからの自由を縛ろうとする幕府へのあてつけであった。これには徳川も辟易し、いごは形ばかりの院政もみとめ、協調路線につとめることとなった。

 その後、後水尾院らは修学院離宮をはじめとする広大な別荘建設にはげむようになる。後水尾院は、幕府の娘で、あるいみ金づるでもあった東福門院と、理想の山荘の地をもとめて岩倉長谷・幡枝など洛北の地をめぐった。最終的に択んだ修学院の地は、かつて幕府に追放され死んだ愛妾(およつの方)が産んだ娘・梅の宮(文智尼)隠棲の地で、地上げ名目で巨額のカネを梅の宮へ渡そうとした親心、あるいは幕府への面当て・・・いわゆるイケズだ・・・そんな目論見もあったのかもしれない。もちろん法皇と文智尼は、東福門院個人に対しては生涯感謝していたのだ。



「兼遐詠草」。末尾の歌に添削がある
 後水尾院が何度も御幸を重ねた岩倉長谷というのは、東福門院の領地のほか聖護院の別荘がおかれていた。記録はあいまいながら西加茂にもおとづれたらしく、山荘のかたわらにあった霊源禅寺を中興している。このころの山荘のいくつかははるか昔の、王朝時代の遺構を復興したもので、岩倉長谷は平安時代に小野宮家の山荘があったところで、足利義政も滞在した。桂離宮にしても、銀閣寺の北にあった北白川照高院などにしても、かつて摂関家の別荘が建ち、ゆかりの瀧の跡がのこっていたりと、由緒ある歌枕の地だったらしい。

 上皇らは、遊興・歌会なども盛んにおこない、周辺には文化サロンがさかえた。桂離宮の智仁親王は秀吉の猶子だったため皇位から退ぞけられ、照高院の興意法親王も一時、方広寺事件に連座されかけた。金森宗和は大坂の陣への出陣を渋って廃嫡になった人。木下長嘯子は秀吉正室・高台院於寧の一族。王侯貴族のほか、もはや幕府や大名に仕えることをいさぎよしとしない、いわば新時代における人生をあきらめたひとびとが都周辺につどった。

 時代小説好きの方は御存知かもしれないが、関ヶ原の合戦前夜、智仁親王は歌道の奥儀「古今伝授」をたてに細川幽斎の命を救った。やがてこれが後水尾院につたわり、御所伝授とよばれた。寛永8年には院自身が和歌の「師匠」として、弟・兼遐の詠草に添削したものが書陵部図書寮文庫につたえられている。この日の掛物「兼遐詠草」も、それに似たものだ。末尾の歌に添削があり、「明らけき御代の光を標べとや 夜行く道も障らざるらん」を「関の鎖さでも夜も行くらん」に変える案を併記してある。



梅や紫陽花の季節もいいらしい
 桃山文化は江戸にもつたわったはずだが、まず寛永・寛文・元禄に上方文化がさかえたのは、かれらの方がより庶民に近く、周囲への影響力が強かったからだ。後水尾院は北村季吟に古典の注釈本を献上させるなど、一般向けの書籍はまず上方で数多く板行され、鷹峯には京焼の釜が開かれるなどした。西加茂恵観邸には武士だったころの近松門左衛門も仕えた。幾重もの濠で囲まれた江戸城の堅牢な石垣よりも、御所の垣根のほうがずっと低かったのだろう。

 ・・・とはいえ、現存する修学院離宮にしても創建当初の建築物はわずかだし、明治に宮が東京に移って廃絶した照高院の跡地裏には朝鮮学校が建っており、仙洞御所も幕末に焼けていらい、再建されずにいる。借景庭園で名高い幡枝の円通寺(後水尾院幡枝行宮)界隈では、つい最近にも一条山の開発などで景観破壊が深刻化。世界遺産・京都でも、時の流れは用捨ないのだ。

 これら山荘の雰囲気は桃山文化といわれるほど花やかなものではなく、むしろ東山文化に通ずるような、わびさびの精神を基調としたものだったようだ。ただ一見田舎屋にみえる恵観山荘にしても、細部にはおそろしく贅をこらしている。内部見学では、大蔵流狂言師の川野誠一さんという人が楽しく丁寧に案内してくれる。正座などは不要だし、茶道に興味のない方や、人と話すのがあまり得意でない方でも気さくに答えてくれるので、たぶんチケット分の価値はあると思う。ただし室内のフラッシュ撮影は禁止。 


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