トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第332号 


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もちださんの鎌倉リポート No.332(2019年3月21日)



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塩嘗地蔵


 十二所光触寺境内に移された塩嘗め地蔵。風化してぼろぼろだし、よだれ掛けも色褪せ、お供えの塩もわずかばかりの小袋や小壜にだいぶ埃がつもっている。鎌倉ではたびたび「塩害」がいわれるように、塩は植物にとって毒だから、悪質な観光客がいたずらしないよう、いろいろ規制した結果、信仰そのものがすたれてしまったのかもしれない。クレイジー‐ソルトとか、超お高い舶来の岩塩なんかがおさめられていたら、それはそれで面白いのだが。

 伝説ではこの像はもともと六浦の浜辺に埋まっていたものとされ、当地の塩商人が掘り出して鎌倉に運び、当初は光触寺橋のたもとに祠を建ててまつった。ところがお供えの塩が必ず一夜のうちになくなってしまう。たぶん毎回盗まれているにはちがいないが、貧者への施しも功徳とかんがえたのであろう、知恵あるひとが「地蔵様が嘗めた」ということにして、丸くおさめるようになった。・・・



太宗寺(東京都)
 伝説をみるかぎり、この地蔵は六浦の塩商人が鎌倉の住民や観光客にわたりをつけるために設置され、信仰をてこにした広告モニュメントとしての役割をになっていたのだと思われる。「地蔵も嘗める、六浦の塩」。そもそも六浦の塩はさして良質でもなく、流通経済が極度に発展した江戸後期には、有名な「赤穂の塩」をはじめとする他地方産の優良な塩との、厳しい競争にさらされていたようだ。

 いまでは六浦塩田はないものの、金沢地区では時折イベントとして昔ながらの塩作りを再現し、ここまで納めにくるのだとか。こうした塩地蔵は全国にけっこうあって、新宿のそれなんかは写真のように山盛りになっている。

 塩地蔵の多くは交通の要衝におかれ、商売繁盛の初穂(お賽銭)として奉納したようだ。やがて「その塩を借り、2倍にして返す」とか「痛いところに振りかけると療る」などといった付帯の物語がついているところもある。横浜の神大寺のものは「疣を治す」。なかには石や福銭、まねき猫の人形にかわったところもある。


 中世まで塩は通貨の替りにもなった。皇朝銭は穴開き銭で束ねて使用することが多く、贋銭が横行。汚染の最たるものは唐宋からの「安い」渡来銭で、もちろん外国銭には本物も贋物もない。いぜんある国が日本の500円玉に酷似した安いコインを発行し問題となったが、それとおなじだ。結局日本の鋳銭は断念してしまうのだが、「安い」渡来銭は明代の鎖国政策で供給が不安定となり、局面的に価値が乱高下するため、ふたたび米布等の物資のほうが取引上あんぜんな【通貨】になったらしい。大名の収入が「貫高(銭)」から「石高(米)」を単位にするようになったのからも明らかであろう。

 江戸の中後期には殖産興業がさかんになり、塩田をふくむ大規模開発が各地ですすめられた。たとえば川崎などでも、池上新田とよばれる海上埋立地に実験農場が営まれ、サトウキビ栽培をはじめ、果樹園・養魚・搾油・硝石製造まで試みられた(・・・これは酒合戦で名高い名主・池上氏の子孫がひらいたもので、残念ながら現在は工業地帯となり、在日韓国人が不法占拠する全国有数のスラム街所在地としても有名)。個人レベルでも、田の畔の空いているところへ何を植えれば高く売れ、小遣いかせぎになる、なんて指導が農学者によってこと細かに広められていた。これを江戸の産業革命という人もいる。

 鎌倉の場合、すくなくとも近世には金沢八景の六浦などの入り海で塩田が発達した。冷蔵庫のない時代には、保存食として塩辛や漬物・塩干物などをつくるのに大量の塩を必要とした。かつての干物は棒鱈やスルメのように長時間水につけなければ戻らないものがほとんどで、半生にするには塩辛くしなければ日持ちしなかった。現在の食塩は電気分解などでつくるため純白だが、岩塩は鉄分でピンク色のものが多く、中世の日本でおこなわれた「藻塩」は灰色をしていた。



坂ノ下・春・雨
 「来ぬ人をまつほの浦の夕凪に」という百人一首の歌でもおなじみの「藻塩」は、鎌倉のうみでも大量にうちあげられるホンダワラという、ごくありふれた海草を利用した製塩法。海草に海水をかけ、風にさらすと乾燥して濃い鹹水ができる。さらに藻そのものを焼いてぶちこむと、不純物の働きで結晶しやすくなるという。一定の不純物は数ヶ月後、にがりとともに水分に潮解して下に沈むので、そこそこ除去される。

 県内でもだいぶ内陸の伊勢原市にある高部屋神社では、合祀される住吉の神事として、大磯あたりから砂と海水とホンダワラを採取してくる。現在ではおこなわないが、これは明らかに神前に納めるための手作り製塩キットだ。じつは縄文・弥生といった時代の遺跡からも、内陸製塩を行ったとみられる土器が各地で検出されているという。

 南洋の貝や黒耀石ははるか遠くまで流通しているし、収穫物を大量加工した痕跡もおおいから、遠古代にも流通経済がなかったわけではない。しかしすべてを流通に依存するのではなく、最低限の自給能力は担保しておきたかった。「神様は手作りの神聖な塩しか受け取らない」。けして効率的とはいえないが、これも有事を想定し、製塩技術の伝承を目的とした神事だったのだろう。



ワカメ拾いの季節を経て、シーズン中はきれいに
 近世には瀬戸内海の激しい干満を利用した揚げ浜式塩田が開発され、こちらは風化花崗岩の砂浜を濃縮の媒体に用いたものだったため、まじりけの多い藻塩とは品質に明らかな差があった。江戸後期には六浦にも揚げ浜式塩田がつくられるが、鉄分をふくむローム層の多い関東では、技術以前に浜の風土、砂の質にも問題があったようだ。市役所で売っている証言集「としよりの話」で、かつて六浦の塩商人が「赤穂の塩」などとうそをいって見透かされたというのにも、たぶん理由があったのだろう。

 もちろん技術と経済性とはまったくべつのものだ。仮に同一の技術があった場合、競争力を高めるためにはコスト削減が必須。まず田舎の安い土地をてにいれ、薪を採るため海のちかくに木材豊富な山があれば有利だし、「人買い」などから安い労働力を不法に調達することも流行した。

 文正草子や浄瑠璃の山庄太夫でもしられるように、中世には製塩長者の話がすくなくない。とりわけ残忍な三郎太夫は、逃走した幼い姉弟の姉、安寿の額に焼きごてを当て、ついには見せしめのため、焼き殺してしまう。そのような残虐行為が黙認される「未開な風土」も、競争力には有利にはたらき、地域振興にとって重要な要素となる。こんな室町商人でさえ気づいていたことを、日本の文化人はとんと理解できず、短期的な売上目標や偽善の虚栄心にとりつかれ、後進国に技術移転だなどと声高に叫んできた。



子供たちの掲示板に教わる
 だが、「中国の安い労働力」との均衡圧力が収益を圧迫、国内の労働環境をも極度に悪化させてしまう。ものづくりは軽んぜられ、下請けいじめやインチキ商法が横行。安いものしか売れなくなり、日本企業がどれだけ人間疎外を押し進め経営破綻しようと、むこうの金持ちは奴隷たちを低賃金で過酷に働かせることをやめず、どのみち土人たちは日本に嫉妬し、文明を心底恨みこそすれ、けして【感謝などしない】。ただ押し売り営業のどじょうすくいでのしあがってきた経営者が、無自覚なまま敵を増やすことだけに専念し、奴隷制国家の「安い労働力」に挑んで自己流にものの価格を下げているだけなのだ。

 産業技術史にはまだ未解明なぶぶんも多い。たとえば清酒を「古代中国の10大発明」「万物は韓国由来」などと説明する者もいるが、そもそも醸造用の麹菌は日本以外にはなく、中国などはクモノス菌。それでも一部メディアや御用学者は中華市場へのごますりとして、ウソだと知りながらしたり顔に中華、中華と触れ回る。

 中世を風靡した「唐土の安い銅銭」「安い生糸」「安い陶磁器」「安い大蔵経」などは、従来「中国の最先端技術」だなどとしてのみ、理解されてきた。それでは、こんにちの「安いバナナ」とか「安いアパレル」「安い木材」「安いダイヤモンド鉱山」とかも、同じように「最高品質」「最貧国の高度な技術力」などとしてのみ、美化されうるのだろうか。アメリカ大陸などでは、かつて黒人奴隷が反抗しないよう、口輪を嵌めるなどして酷使した。それらは極端な例だとしても、労働者階級への想像力が欠如した歴史観など、ほとんど無意味な世迷言でしかない。貧民たちの怨念(ressentiment)は、あの不法占拠スラム街のようにいつまでも執拗に居座りつづけ、他人の幸せを憎み、骨をしゃぶりつくすまで、ゆすりたかり・嫌がらせをやめない。土人を支援して紛争をあおりたて、「グローバリズム万歳」「ウィン‐ウィン」などと謡いつづけている教育者は、きっと頭がおかしいのだ。


 かつての鎌倉にはいくつかの防衛施設があった。塩嘗め地蔵ちかくにある朝比奈切り通しの鎌倉側は比較的広く直線的で平滑だから、おそらく頂上で杣の材木や物資を橇にのせ替え、ゆっくり落とすことを最優先した構造のようにおもわれる。こうした直線的な構造は律令時代の官道の特徴をひきついでいる。それでも麓にはいくつか平場や土塁をきずいて有事にそなえていたようだ。

 軍事的要衝は、流通の要でもあった。関取り場は後北条時代の関所とされ、荏柄天神造営費の名目で牛馬や車などから関銭(運上金)をとったという。杉本寺前の児童館「フレンドリー鎌倉」のグラウンド裏には、滑川がお濠のようにめぐっている。ここから杉本寺・浄妙寺の裏山(稲葉越)にかけて「杉本城」とよばれる砦があって、北畠顕家の鎌倉攻めのさい、防衛線としてじっさいに使用された。玉砕した斯波家長らの墓とされるものが杉本観音の境内に祀られている。これは「本丸」や「二の丸」があるような城ではなくて、あくまで金沢街道の交通を遮断するための要害、「陣地群」のようなものだ。三浦党の和田氏の先祖も、杉本氏を称してこのあたりに住み、「犬掛坂」などと呼ぶ古道をふくめた交通の要衝を管したらしい。

 軍事面のみならず、富貴は人心をひきつける。武士たちにとっても、経済手腕は必要不可欠だった。しかし、中世に大量の関が乱立すると商人たちは規制や徴税を回避するため、楽市政策をとる特定領主(タックス‐へイヴン)のもとにあつまるようになり、消費者は過剰な特権をもつ商業主に対し、土一揆・打ち壊しなどの手段で抵抗するようにもなった。戦国時代の絶えざる紛争の原因はたぶん、こんなところにあった。


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