トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第334号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.334(2019年4月9日)



No.333
No.335



琴弾橋と八雲神社と・・・2


 大町八雲神社には宝物殿がある。宝物殿といっても神輿をおさめた庫の合間に土器片とか漆器類など、「素人にはわかりづらい」いろんな小間物が並べられていて、ガラス窓越しに見えるようになっている。また「義光の手玉石」というのはよくある力石(約120〜150s)のことだ。近世の若者が力較べにもちいたもので、だれでも揺らすくらいならできる。

 摂社は右に三峯社(御嶽社)、左に諏訪・稲荷・於岩稲荷。「於岩」はあの四谷怪談のお岩さんのことで、彼女が稲荷をまつったから田宮家は繁盛した、そのお岩さんを夫・伊衛門が殺したために田宮家は没落。したがって正直者がお岩をまつれば必ず怨霊は善神と化して、稲荷のご利益にあずかるということらしい。伝説の舞台・東京四谷の左門町から、いつ・なぜここに分霊されたかは不明。



羽能・幣招・射祓・剣舞
 正月六日には湯立て神事(三時〜)がおこなわれる。以前、権五郎神社の面掛けの日に行われた湯立神楽を紹介した(レポ90)が、ここの鎌倉神楽もそれとほぼ同じものだ。ただし観光用のまつりではないため、八座の神楽はみな社殿の上で舞われ、見物は外から。庭で焚かれているお湯の所へは、一曲ごとにいちいち下りてくるのだ(前号に写真)。

 鎌倉かぐらは鶴岡社家に伝わったもので、近世流行した葛西囃子の系統。かつて八幡宮には五十座もの曲があったというが、明治の弾圧で楽人が四散、衰退。旧伝承家のひとつ小池民部の屋敷跡は、若宮大路、さまぁ〜ずの似顔絵なんかがある古い酒屋(三河屋)隣の路地「小池小路」の奥に、立て札がたっている(写真6)。

 特に解説もなく、あつまった人々は、だんだん退屈になってくるわけだけれど、なにより巫女さん役に動員されたちびっ子が、じっと座っていられず、だんだんモゾモゾしてくるのがわかる。観客の関心はむしろそっちに集まってきて、「ゆりこちゃあん(仮名)、がんばって! 」なんて祈りの声が、どこからともなく聞こえてくる。かつて伊勢神宮では血穢を嫌い、初潮前の童女しか使わなかったと「十仏参宮記」1342に書かれているが、現代っ子には難しいのかも。


 さいごは黒面の三番叟(山ノ神)が飴や蜜柑を蒔いておわり。あつまった人々が庭にたてたひもろぎを争うように引きちぎっていると、例のちびっ子ももう、けろっとして参戦している。鎌倉は比較的児童公園もすくないし、なけなしの神社もやがて観光客のものになってしまったら、ちょっとかわいそう。さいきんは物騒な事件もおおいらしいし・・・。

 冬は暮れ易く、例の「夕焼け小焼け」の町内放送がきこえてくる。鎖された別願寺の玄関にはもう明かりがともっており、額田病院のロビーも人影がない。大黒社(名越大黒堂)は安国論寺の傍らにある鎮守(下)。ここの大黒天像は現代のもので、うちにあるビニール製の貯金箱とほぼおなじ、打出の小槌をもって俵に乗ったユーモラスな姿だ。

 大黒天はヒンドゥー教の神「マハーカーラ」の意訳で、絶対神シヴァの祟りの姿であるとされ、時と破滅をつかさどる神であるとされる(妻・デーヴィもカーリーという暗黒神の姿をもつ)。それが仏教では火(<破壊)とのつながりから台所を守る地味な神様として伝来。日本では「大黒」と「大国」を混同、穀物・豊饒神である大国主命と習合し、中世以降、広く民間信仰にもひろがった。七福神とはもともとわけのわからない神々の集まりで、現在の組み合わせになったのは江戸時代。古くは稲荷・鍾馗・白髭明神・虚空蔵菩薩(月待ちの本尊)などというものから、おかめひょっとこ・楊貴妃・猩々などといった有象無象の神々も、七神の内に数えられていたらしい。



名越大黒堂には鳥居・狛犬がたつ
 大乗仏教では、万物は仏の化身と考える。だからインドの神と日本の神が同体でもなんら問題ないのであり、平安時代の人物とされる北野天神(菅原道真)が、鎌倉時代に渡宋して無準師範に参禅した、というようなタイム‐パラドクスがあったとしても、なんら不思議はないとされた。渡唐天神信仰の原典ともいえる花山院長親の「両聖記」によれば、二人とも「聖」なのだから、時代を超えて出会うこともありえる、それともこの世に「聖」など存在しないというのだろうか。そんな論法で荒唐無稽な民間信仰を論理づけた。

 この花山院長親は南朝の臣下だった人。南北朝の戦いは結局、朝廷を破壊しつくした。理念のために現実を壊したのだ。「天地日月山川草木も、みなこれ幻化なり。・・・ただ名字のみ有りて実体なし。果たして有るごとくやすべき、無き事とやいはん。なんぞただこの両聖相見の事につきて、はじめて真偽の距迹を論ぜん」。この世界のすべてが幻だというのに、なぜ北野が無準に会ったという、そのことの虚実にのみ、こだわるのか・・・。花山院長親にとって、現実(=幻)など、もはやどうでもよかったのかもしれない。

 日蓮宗では七面明神・鬼子母神などをはじめとして、独自の曼荼羅に多数の守護神を配置する「法華神道」がさかんだった。大国主であれば比叡山(天台宗)の鎮守・日吉大社の祭神でもある。日蓮宗としては、日吉の神がかれらを見限って日蓮に仕える「三十番神」になり、ここへやって来たということを表そうとしたのかも。明治の神仏分離では、こうした神々は「淫祠」として禁じられ、正式な神社となることはなかった。七福神に古い神体が希少なのも、そんな事情があるからだろう。



明徳四年は1393
 一の鳥居に着くころには、ほとんど日が落ちていた。伝畠山六郎重保塔のあたりはもともと木陰だから、もうまっくら。あてにしていた銘文が、フラッシュではうまく撮れない。銘文の内容や年号1393などは重保(1205没)本人とはまったく無関係なのだが、騙し討ちにされた若武者は民衆にとって、いつまでも尊い「御霊」だった。たとえいんちきだと言われても、そこには説明しがたい、なんらかの神秘な謂れがあると信じていた。

 お伽草子では、六郎は頼朝を誤って刺殺したことになっている。美貌の六郎に懸想した娘が恋死にし、それでも一向に振り向かない六郎の態度を恨んだ親が、過去の秘密をあばいてしまう。追討を受けた六郎は魔界の神通力で一の鳥居のてっぺんに飛び上がり、ひとり大軍相手に奮戦、やがて海にはいり、龍宮の婿になった。そんな薄気味のわるい話も創作された。神様は生前にも異界の者・神の子であったにちがいないと、人々はそう信じ続けた。

 一の鳥居のあたりは微高地で、浜の砂丘のなごり。浜堤の外側が「前浜」「浜土」と呼ばれた地区。自然の浜堤は何重にもでき、浜はいまよりずっと広く、河口を埋めて潟(ラグーン)を形成することもあった。材木座というのは、いまは埋まった広い潟湖があって、木場を設け、大量の材木を浮かべていたのかも。一定期間水に晒さず乾燥させると生木はひびが入り割れてしまう。平安期の京都では堀川に材木を貯蔵していた。



小池小路・若宮大路
 河原や浜土は水害で変遷しやすく、その所有も明確でなかったために公共の場所(公界)であるとともに無縁庶民の町、いわゆるスラム街を形成する傾向があった。もとより貧民は都市に依存し、都市は労働力を必要としたから、これも都市機能の一部であると位置づけるべきだ。貧民の一部は「非人」とよばれたが、広義の非人には遊女屋のように富貴を誇るものもいた。逆に一般人にもヤクザはいたし、非人のいない農村ではみずから「葬送」や「屠殺」「清掃」をおこなうなど、もとより差別のいわれは明確ではなかった。奴隷制といえばローマ帝国がしられているが、古典の名作「サテュリコン」などにもえがかれるように、奴隷階級にありながら商工業で大成功を収めた者も、けしてすくなくはなかった。

 古代には「品部(とものみやつこ)」という官奴の制度があった。氏族と誤解する人もおおいが、物部の八十氏などといわれるように、頂点にはいまの社長にあたる穴穂部の皇子のような人が君臨し、大連とか宿祢などは取締役クラスで、もちろん労働とはあまり関係がない。末端の部民のうえには直(あたい)とか忌寸(いみき)などといった、血族ではない複数の現場監督のたぐいがいた。後世に「穴生積みの石垣」をつたえたのは、古代に「穴掘り部」として古墳の石室などを積んだ【下層の官奴】の遠い子孫だった。したがって秦氏とか物部氏といった大雑把な表記は、厳密にいえば誤りである。

 現代の日本では規制により路上生活者は激減したが、いまなお「ドヤ街」とよばれる日雇い労働者の簡易宿泊所や特定外国人による不法占拠部落はすくなくない。ジャーナリストらは表向き人権保護をうたいながら、その実、こうした灰色地帯の解消には否定的で、同化教育などおくびにもださない。もっと外国人を呼んで、安易に安く使い捨てたい。自称「人権家」の叫びは高まるばかりだ。



額は小笠原長生の書
 信じようとする人がいるかぎり、偽史・伝説は生まれ続ける。そして過去はいつしか雲となり、雨となってはるか遠くへ消えてしまう。迷信は遠い昔の笑い話ではない。かつて共産主義にトチ狂った人々は、今どこへいってしまったんだろう。無差別爆弾テロ・ハイジャック・火炎瓶・リンチ殺人・内ゲバまでして固執しつづけた、「唯一絶対の正義」とかいう、あの忌まわしい幻の信奉者は。

 昼間行った薬王寺の「本尊」祖師像は、不受不施派の本拠の一つ池上本門寺からもたらされた。これは江戸目白・鼠山感応寺にあったもので、隠居し大御所とよばれた徳川十二代将軍・家斉(1773-1841)の肝煎りで建てられた幻の大伽藍のなごり。創建まもなく廃寺となった同寺の材木は本門寺を経て妙本寺にも下げわたされ、維新後、身延山の復興に役立てられたという。

 鼠山の感応寺は、幸田露伴の小説にもなった「谷中の塔」で知られる谷中感応寺が不受不施のかどで廃寺改宗1698、宗門の本尊などは撤去され長らく池上の預かりになっていたのを、復興運動を経てようやく別の場所に建立したもの1836-42。好色な家斉が集めた奥女中らが信仰、やがて「寺中で淫行をくりかえした」。おそらくこれは家斉没後、天保の改革で水野忠邦が肥大した大奥の粛清を図ったさいのとばっちりと思われるが、寺は完全に破却され地上から姿を消した。とはいえ晩年の家斉が愛妾・専行院於美代のおねだりで寺の復興に入れ込んでいたのはまちがいなく、この像には腰部に孔がうがたれ、家斉の分骨も納められていたのだとか。ごく短命におわった鼠山感応寺は近年、礎石の発見でようやく実在が確認されたらしい。


No.333
No.335