トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第350号 


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もちださんの鎌倉リポート No.350(2019年9月16日)



No.349
No.351



扁額―文字について・3―



藤沢山(清浄光寺)・霊山寺(日向薬師)
 神社や寺にかけてある額は、多くが現代風の楷書であるが、独自の書体をもつものもある。いまでも「ギャル文字」とか、パソコン向けの各種フォントとかがあるように、むかしの書家も古今東西あらゆる字体を研究した。

 空海の墨跡には真疑模本あわせて各種書体があり、「聾瞽指帰」「風信帖」「崔子玉座右銘」は楷・行・草の代表的なもの。そのほかにも飛白体・龍爪体・垂露体など、実用的ではない装飾書体がつたわっており、手がけた碑文や内裏の額などをつうじて、後世に影響を残した。

 八幡宮の鳩文字や江の島の蛇文字、熊野牛王の鴉文字なんかもそうした装飾文字の系譜をひくのだろう。「篆書百体千字文」などの書に、図案的で奇怪な書体がのっている。筆ではなく、アラビア文字風の専用のヘラや串で書いたらしいものも。



江島大明神・築山稲荷社(鶴岡八幡わき)
 いぜん「空から日本をみてみよう」とかいう番組があって、キャラクターの「雲じい・雲美」が湘南の砂浜にでかい砂文字を書いているひとを上空から見つける。みた瞬間、武田双雲さんだ(笑)、とわかった。瞬時にわかるほどクセのある人もめずらしい。

 鎌倉〜室町の能書といえば後京極(九条)良経・九条教家・鷹司兼平・伏見院・尊円法親王(1298-1356。青蓮院流=御家流の祖)であるという(本朝能書伝)。また伝統的には藤原行成の流れをくむ世尊寺流などもはやっていた。しかし「お手本的」に美しいということと今日的な評価はべつだ。世に真似する人が増え、同じような書がありふれてしまえば、他に埋没して味わいも薄くなってしまう。

 現在の評価では、西行などの不世出の著名人や禅の高僧らの墨跡のほうがはるかに人気が高い。ただ「偉人の書」が人物評価をはなれ、純粋に書道芸術としての鑑賞にたえるかといえば、かならずしも首肯しがたいものもある。禅僧というのは、もともと茶道が禅の祖師への点茶供養にはじまり、利休もまた大覚寺の禅僧であったことから、茶室に用いる茶掛けも当初は「なんでもあり」ではなく、その師僧一派の遺墨に限ったとされており、茶道や花道などの方面からも、需要がたかまったようだ。



高部屋神社(伊勢原)・宝帒寺(横浜)
 高部屋神社の扁額は幕末の志士で書家でもあった山岡鉄舟(1836-1888)の書。鉄舟は晩年、小遣い稼ぎに大量に書いたのでさほど珍しいという程ではないが、やはり額となると筆致もちがってくる。本来得意とした掛軸類では禅僧ふうの豪放な草書だが、こちらは余白も多くとって読みやすい。右下、宝帒寺の額「古宝帒」も鉄州の書。だれもが知っている羊羹の老舗「とらや」のロゴも、かれの書だ。

 高部屋神社の号は「延喜式」に載る式内社の候補地「論社」であって、明治になって今の称に改められた。本来の額は「八幡宮」であり、いまは拝殿内にころがしてある。ここは本殿もまぢかにみられるが、あきらかに八幡造りであって、江戸期までは別当寺も付き、大般若経を今につたえるなど、鶴岡八幡と同様の姿であったと思われる。ここは扇谷上杉氏の本拠だから、高部屋神社の真偽はともかくとして、鎌倉の八幡宮を模倣した時期があったのだろう。



4右は世田谷永安寺・杉田東漸寺・世田谷豪徳寺
 禅宗の寺では「無怖」などの偈がかけられることも多い。いぜん紹介した町田駅近くの日蓮宗青柳寺(相模原市、レポ153)にはなぜか「拈華微笑」の額がかかるが、これは本来禅宗で成立した語。釈迦が弟子の前で無言で蓮華をひねると、迦葉だけが微笑んで悟った。すなわち「不立文字、教外別伝」の禅の立場を示すものとされる。「考えるな、感じろ(Don’t think, …Feeeeel!)」というのはブルース‐リーのマニアにはおなじみだ。

 この迦葉の法系を七仏二十八祖といって、達磨にはじまる禅宗の起源であるとする。くわしくは北宋の偽経に由来する説話なので禅宗独自の所依であるのは明らかなのだが、じつは生前の日蓮もこれを批判している。「拈華微笑も不立文字も、それ自体が文字であるから矛盾」といって教外別伝を否定する論理をのべ、その時の迦葉のさとりも平凡なものにすぎないとした。また、根拠の経典名についても古記録にないから偽文だろうと断言している(諸宗問答抄・蓮盛抄ほか)。

 「瑞興庵」とあるのは東漸寺の開山堂。開山堂が「庵」というのはどういうことだろう。堂内には重ねて「見性」「勅謚宏覚禅師」の額もあり、かつては左右に詩板が掲げられ、奥の祖師(桃渓徳悟)像の裏には墓塔もあるという。桃渓が生きて住んでいらっしゃるの謂いか。大町名越の上行寺の門には「感応閣」の額があるが、「閣」の字源は門をとざしておく(閣=さしおく)なので、楼門の二階部分(楼閣=高殿)があるならともかく、ふつうの門には当らないと思われる。



川崎王禅寺・ぼたもち寺・島津忠久墓参道
 篆書体はそもそも読みにくいものだが、常栄寺(ぼたもち寺)の「現無量神力」に至ってはお手上げの人も多いはず。なぜなら現代ふうの「無」の字はもともと篆書にはなく、異体字を用いていて、「大」の字の中に「廿廿」と「木木」。これは近代はじめに横浜でかつやくした三好芳石(1845-1922)という人の書。法華経の如来神力品の一節で、日蓮宗ではよくもちいる。ちなみに、境内の石碑には「ほたんもち寺」とある。

 そもそも篆書はいったんは廃れた文字であり、林羅山のような人でも解読できず、他人に読んでもらったことがあるほど。鎌倉時代に元に渡った中巌円月が現地で知り合った詩人たちも、「凡そ文章詞語に古今の異有り。然るに人、今に在りて古典を浙通せんと欲す。苟くも先儒無くして音訓の則、焉んぞ能くこれを読み得ん。殷盤周誥(*擬古的)に書く詩の二鴟の如きは、甚だ聱牙(*難解)なり」と酷評、唐代に古文運動を提唱した韓愈・柳宗元らを批判した(中巌「文明軒雑談」)。

 仲間たちは例しに、韓昌黎集より「曹成王碑」を無註裸文のままに朗読し、口ごもる。「句読点と四声(詩の平仄)が合っていればいいから」と外国人の中巌にもよませるが、読点や注釈がなければとうてい、読み通すことなどできない。たいした内容ではないのに、奇怪な異体字があまりにも多いせいだ。



時計回りに海老名国分寺・横浜寿福寺・青梅即清寺・相模原龍像寺・八王子神社・上粕屋洞昌院
 実用とは程遠い篆書は、本来エジプトのヒエログリフ(神聖文字)のようなもので、読まれることよりもまず、権威を示すことに重きを置いた。唐土では訓詁学者や書家によって研究がすすめられ、宋代の骨董ブームで、印章の文字などとしてひろく復権。四角い字面をまるで迷路のような字画で詰めてゆく「九畳篆」など、新しい篆書体も開発された。鎌倉では頼朝墓のとなりにある島津・毛利先祖の墓周辺に篆書の碑額が多く立てられているが、幕末〜明治の書家が苦心して書いたらしい割には読みにくい。「重修源頼朝卿源忠久朝臣墓猷・・・硜?」。フォントにない字は当用漢字をあてるにしても、つごうのいい異体字がないことも・・・。

 八王子神社はもともと修験の社(八王子権現神護寺)で、祇園八坂社同様、牛頭天王と頗梨采女の生んだ八王子を祭るのだが、ここでは比叡山の僧に夢告して実際に「八王子」が出現したという伝説があり、また方角占いの八将軍とも同一視された。「恵方巻き」でもおなじみの八将軍は、木星(太歳神)を中心とした星占いのひとつ。山伏は村落の民間暦や吉凶占いなども生業としたから、仏教(宿曜)占術のみならず道教・陰陽道などともひろく習合していたわけだ。

 神社は戦国時代に八王子城に包括され、東京都八王子市の語源となったのだが、額はそののち宝永年間に鋳造し奉納されたもの(現在、八王子市郷土資料館寄託)。「子」の字のうえに「災」みたいな画があるのは、陰陽師・山伏文書にみられるような呪術的な作り字ではなく、もちろん正式(?)な異体字なのだが、おどろおどろしくオカルト的な雰囲気をかもし出しているのはおなじだ。



北野天神(京都)にて
 いぜん修理中の北野天神社をたずねたら、いちじるしい数の額を掲げた社があった。ようするに摂社末社のたぐいを一時的にここへ合祀したのだろう。一之保神社・一夜松神社・豊国神社・野見宿禰神社・・・。さまざまなゆかりの祠を境内に遷座し、かつてはひとつひとつ、そのゆかりを参拝者に説いては賽銭を求め、信仰をひろめたのだろう。高額な拝観料のかわりに功徳や見所の数で収入をはかったらしい。

 こんにちの寺社でみずからの功徳や由緒を積極的に説くところは稀だ。わたしたちは解説板やガイドブック、参詣の栞などによって、その寺社がなにを意味しているのかをおぼろげに知る。和尚や禰宜、券もぎりのおじさんがなにを語るわけでもなく、ただ風情があるとか、あじさいが盛りだというだけで、なんとなく訪れているひとも多い。「最強パワースポット」とか、「通だけが知っている裏鎌倉」なんてものは、マスコミが勝手に発明しているだけ。

 言葉に意味なんてなくてもいいのだ。意味なんてものは各自が心の中にもっていればいいわけで、押し付けられるものではない。でも文字は読めないより、読めたほうが楽しい。
 


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