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もちださんの鎌倉リポート No.351(2019年9月26日)



No.350



朱印帖―文字について・4―


 令和の改元ブームで、各寺社が「限定朱印」を発行、金の令和・銀の令和などに長い行列が出来、高額転売などの悶着すらおこったことは記憶にあたらしい。スケートの紀平選手などが、早速令和おじさんの真似をして大ウケしたことなども、若者にbuzz(騒然とな)った理由なのだろう。

 そもそも現代における朱印とはなんなのか。古代においては天皇の詔勅や公文書の改ざんを防ぐため、文字の上いちめんに「透かし模様」のように押された朱印・墨印をルーツとする。順礼とむすびついたのは納経の「証明書」からという説が有力だが、やがて写経や札所巡りとはゆかりの薄い真宗・禅宗など他の諸宗派にもひろがって、近世にはすでに今日とおなじく、参拝記念のスタンプ帖になっていたという。


 家のふるいがらくたを整理したら昭和26年の集印帖がでてきた。残念ながら関西のもので、初心者に読みにくい草書は「奈良手向山八幡宮」「大宝蔵院」「東大寺」「東山殿」。墨文字の書かれていないものや墨字を木版で押したもの、観光用のゴム印やそれに近い図柄のものもある。いまでは観光スポットから外された菩提院のものも。奈良春日の神鹿を殺した少年を生き埋めにしたという伝説でしられるが、残酷物語が問題視されるようになったためだろう、現在は思わせぶりな柵があるため、開けて入る人はごく少ない。

 猿沢池の上の道に入り口がある。20年ほど前、えさもないのに、かわいい仔鹿がずっとついてきて52段の崖でようやくまいた。これは鎌倉にはない魅力。

 さて、これらの朱印はいったい、いくらくらいだったのだろう。戦後の一旅行にしては思いのほか大量に押されているから、志納だとしても当時の相場はたぶん、いまの感覚よりずっと安かったはず。安いなりにしょぼいのも多いのだが、今なら20件で大一枚、「おたべ」ならいくつも買える。



正応の碑伝(愛川町・八菅神社)
 その昔、山伏たちはみずからの修行のあかしを「碑伝」という木の板にしるして行場や行者堂の周りにたてた。これは鎌倉時代1291のもので、八菅の行者・松田某が、「四国辺路斗藪」「阿闍梨」の長喜(八度目)という者と、「熊野本宮長床衆」「生年八十一法印権大僧都」の顕秀(初度)のふたりを「先達」として案内したさいのもの。碑伝はふつう、そのまま野外で朽ちてしまうものらしいが、「本宮長床衆」は修験の祖とされる由緒ある一家の人なので、現地の山伏(松田某)がその案内役に任じたことを誇りに思い、ひときわでかい柱にしたため、たまたま今日まで保管されてきたらしい。一部の文字は風化にそなえて彫りこんである。

 銘文に「四国辺路斗藪(へんろとそう)」とあるのは、いわゆる八十八ヶ所のお遍路の原型。こうした修行の証明を、碑伝ではなく「朱印」などとして大切に家まで持ち帰るようになったのは、おそらくプロの山伏ではなくて一般市民、在家修行者たちだったろう。中世には貴族のパトロンが衰退したため、市民が祠をたてたり秘密の修行に体験入門しはじめるのだ。

 日本中に法華経(大乗経)を納めてまわる六十六部にしても、法華経じたいが印刷物として安価で手に入るようになると、修行自体の価値がさがる。庶民は六十六部の行者を尊敬し、さまざまな接待をしたらしく、たしかに「六十六部供養塔」が各地に数多くのこってはいるのだが、近世にはその多くは飢饉などの災害で生業をうしない、慈悲や功徳を乞う難民集団を意味するようになった。はては「六部」と略して、単なる乞食の隠語にすらなってしまった。


 右の「比叡登山」という篆書の角印は「天皇御璽」「大政官印」などの伝統的なデザインを踏襲しているが、記念のゴム印のようだ。緑や赤・菫色の絵入りの印は現在にも通用しそうだ。

 篆書は象形文字が秦代までに変化したものとされ、実用的であるよりも権威を象徴する装飾性に重きを置いたことから、祭文や宮殿の装飾、証明印のようなものに残りつづけたと思われる。後漢ころに成立した「隷書」はすでに一般的な楷書の原型をなしており、ざっくりいえばその後は実用的な文字の形ではなく、単にデザインや筆勢の変化を経たにすぎない。ただ、文字の数は際限なく増殖し、「峰」を「峯」「嶺」「岑」、「秋」を「穐」と書くような無駄な異体字の使用もいちじるしく、近代になって中国では文字制限や簡体の普及によって識字率をあげる必要があった。それまでは商用文字・女書などの記号やウイグル文字・満州文字・トンパ文字など各種民族文字が代用されるなどした。

 いぜん法隆寺(奈良)の聖霊院で、既に磨り減ってつかわれなくなった古い印を押させてもらったことがある。もちろん昭和あたりのものだったろうが、係のじいさんは「和同・・・じゃないかな」という。たしかに文字は潰れているが、どうも「和以為貴」とあるようだ。さすがに和同のものがそこらに転がっているわけはない。


 朱肉の原料は辰砂(硫化水銀)で、練り朱肉はそこに油や松脂、植物繊維などをまぜて粘りを加えたもの。辰砂はもともと雄黄(硫化砒素)などとともに顔料としてもちいていたが、唐土では神仙道の影響から漢方薬にもなり、日本でも弥生以前から近世まで、貴人の棺などに防腐剤として大量に塗布・散布されるなどした。染料にくらべ色褪せしにくいことから、霊力のあるものとして珍重されたのだろう。

 辰砂を加熱すると水銀が得られる。水銀は一部の金属によく溶けるので、メッキ(鍍金)に使用された。大仏などの青銅像には、あらかじめ金泥を溶かした水銀(アマルガム)を塗るか、水銀を接着剤として金箔を貼るかすると、銅の表面に一瞬で溶着する。すばやく炭火であぶり水銀だけを蒸発させれば、表面に金の薄い膜だけが残る。鎌倉大仏がどちらを用いたかは、さだかでないらしい。

 この技法は古代の錬金術師により発明されたと思われる。古墳時代の金銅製品にもみられ、大阪の四天王寺には「聖徳太子お手ぬり露盤(塔の九輪)」伝説ものこるが、有機水銀ほどではないにせよ、身体に有害な水銀蒸気がでることから、こんにちは行われない。唐土では不老不死の仙薬のほうに関心があり、「錬丹術」と称して五毒とされる水銀や砒素を服用したり、あるいはへその下に「丹田」があって、修行によって体内で仙薬が生み出されるなどの迷信も生まれた。


 昭和後期、1970年代の記念スタンプとしてよく知られるものに、「DISCOVER→JAPAN(日本、発見)」と称する国鉄の駅スタンプがある。これは国鉄時代の公式キャンペーンのロゴが入っていて、その時代に「清里のペンション」など、辺地への小旅行が若者同士のファッションとして位置づけられ、団体旅行や家族旅行が中心だった旅の概念を劇的に変えたといわれる。切符の図柄にM型の鋏(切れ込み)が入っているのは、いまの若者には珍しいかもしれない。

 このころ中村雅俊さんのドラマ「俺たちの旅」で、江ノ電極楽寺駅が登場したり、さだまさしさんの「縁切寺」という歌がヒットしたのだとか。今聞くとなんとも古めかしいが、この「DISCOVER→JAPAN」のシリーズは山口百恵さんの「いい日旅立ち」で終わったというから、なるほど時代なわけだ。いまも残っているのは「遠くへ行きたい」という朝の旅番組くらいで、近鉄がやっていた「真珠の小箱」はなくなってしまった。くそまじめな「語り手」とほのぼのとしたテーマ曲、莫山先生の番組ロゴも好きだったのに。

 いまも旅番組は、いくつかあるのかもしれない。ただし視聴者の「共感」をえようとするあまり、お笑いタレントの仲良しトークに頼りすぎているかのようにみえる。みんなで仲良く、伊勢神宮。「共感」「共感」・・・なにを焦っているのだろう。


 「喜びよ!神々しい輝きよ、楽園の娘たちよ」とベートーヴェン(詩・シラー)は歌う。「すべての人々は兄弟となるのだ。・・・それが出来ない者はでてゆくがいい!涙を流して、この集まりの外、この連邦の外へと!」 みんなで楽しく盛り上がれないものは死ね。われら進歩的知識人の説く絶対正義に、たてつく者は去れ。

 そういえば昔、安国論寺だったか、「これは他宗の集印帳だ」などと難癖をつけられたことがあった。いったい子どもにむかって、なにを言っちゃってるんだろう。「それじゃ、日蓮はさいしょ、どこの寺で学んだのかい」「仲間内にしか説かなかったのかい」。若い僧は首をひねりつつ、しぶしぶ書いてくれたけれど、内輪向けの小さな正義・てめえのこざかしい選民意識など、われわれ「他人」の知ったところではないのだ。

 おなじころ、知らないおばちゃんに貰った黒地蔵のおまもりが出てきた(レポ9参照)。表には朱で地蔵の種子「カー」が書いてある。包んであった上紙はなくなってたけど、これまだ売ってるんだろうか。


No.350