トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第357号 


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もちださんの鎌倉リポート No.357(2019年12月3日)



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菊と紅葉と古民家


 八幡宮では秋になると、毎年小屋掛けで菊花会が開かれる。近年では「葬式の花」よばわりされ菊離れがすすんでいるが、葬式の花じたい百合やカラーなどに変りつつあって、国華ともよばれたかつての人気が戻ることを願うばかりだ。

 武相地区では大輪系の菊の栽培がさかんで、町田市役所でもかざってあるし、港北ニュータウンのセンター南駅でも毎年菊花展がある。偏見の多い「黄や白ばかり」でなく、チョコレート‐ピンクなどもあるし、なんならモダンな生花や、カラフルな洋花ととりあわせたりする試みも求められてゆくかもしれない。そこは花道諸派の若い家元や、「フラワー‐アーティスト」たちのセンス。



「男山」・近所のイチジク・きれいになった店蔵
 おととし紹介した川和の菊屋敷(横浜市・レポ266)に行ってきた。すでに幼稚園は建っていたけど、店蔵なんかはきれいに塗りなおされて、順調に保存が図られているらしい。収蔵品の整理は大分進んでいて、菊はなかったけれどご当主の中山さんとお話しすることができた。ちょっと春風亭昇太さんを思わせる、気さくな方だ。

 川和の菊が無くなったのは戦前のことで、ご当主も写真でしか見たことがないという。自慢の「男山」は凋むとき、ソフトクリームのようにひねる変化菊の品種だった。今は大輪や小菊が主流なので、江戸期に流行した中菊を趣味にする人は少ないそうだけれど、植物園やどこかには、まだ亡びずにあるんだとか。(ここで)見てみたいですね、と水をむけてみた。

 中山家は実業家で、商店・醤油醸造のみならずさまざまな事業にたずさわった。今回の展示では電話線敷設などの資料のほか、製糸・養蚕の道具も目にとまった。明治期、JR横浜線は生糸を欧米へはこぶ日本のシルクロードとして敷設された。安い中国(清)の生糸を工業力で圧倒し、良質な蚕種紙の輸出などを通じて、三渓園の原三渓のような大富豪も生んだ。教科書にはたぶんそこまでしかでていないが、養蚕業は中国の近代化によって、まもなく瓦解する。いまでいうところの産業流出、半導体の壊滅とおなじだろう。


 この日はおなじ横浜市都筑区にある「関家住宅」の公開日でもあった。関といえば伊勢平氏であり、鎌倉の旧家にも関家は存在する。裏山には茅ヶ崎城(レポ348)の鎮守・観音堂をもつ寿福寺の本坊もある。ただ、戦国時代に関加賀守なるものが後北条氏の土着被官だったらしいことがつたわるだけで、中世にさかのぼる伝承にはとぼしい。太閤検地のころにはその五代目・図書助義明なるものが住んでいた。江戸期には旗本医師・久志本内蔵家の代官名主となった。

 関家はいっけんどこにでもある豪農の旧家のようだ。たしかにでかすぎる長屋門は目をひくけれど、子供部屋や二階の蚕小屋と一体化した明治の改築。注目されるのは主屋母屋の部材が17世紀にさかのぼるからで、鎌倉にある玉縄資料館の旧石井家住宅(*レポ64、130)同様、国の重要文化財。柱は細いが高級材をつかい、表面はほぼ平らに仕上げてはいるが、光にかざすと手斧(ちょうな)加工特有の「なぐり」の痕が浮かび上がる。つまり鉋が普及する江戸中期以前の建築、ということがわかってくる。

 関家住宅の特徴はほんらいの場所にあり、ご当主がまだお住まいだということだ。発掘によれば、のちに書院が増築されたのでやや場所をずらしているというのだが、可能なかぎり当初の形に復元し、萱葺きにして天井などもとっぱらい、竈なども置いている。お手洗いだけは別としても、ほぼ近代以前の生活環境。プライバシーもあるので、調度など内部の写真は掲載できない。ただ撮影は自由。



「なぐり」の跡
 近くには巨大な高層アパート群も林立しているが、家のまえにはちょっとした畑ものこり、土間には薪なども割ってあって、ご当主も古民家生活を趣味として楽しんでおられるようだ。また、とくべつ高価なものではないにせよ、和歌をしたためた屏風・襖・掛軸や小物などをおびただしく飾ってあり、江戸期の田舎風流人の生活をさながらあらわしている。門前の歌碑にも戦前のものがあった。

 江戸も後期になると、江戸や各藩郊外の田舎にも学問がはやり、医師や歌人・俳人クラスの文化人を多数、輩出。地元の和尚ではあきたらず、有名な国学者などの門人になって和歌を投稿したり、はては仲間内で自費出版するものもいた。当時の流行をうけ、万葉仮名みたいな異常によみにくい草書でしたためた石碑なんかも、各地にのこっている。

 渡辺崋山が「游相日記」で訪ねた長津田の琴松こと「河原家」は、古民家ではないが崋山の短冊などをつたえ、いまも広大な敷地を住宅街のなかにたもっている。先祖は東勝寺の自刃をのがれてうつりすみ、やがて北条時行の末裔を称する岡部氏を領主に迎えたという。また徳川将軍の納涼を接待した世田谷・瀬田の長崎家も、典型的な江戸期の田舎風流人のたぐいで、鎌倉時代の長崎氏の末裔といっていた(レポ306)。先祖は由緒ある武士で、いまは俗世間の無常を悟り、紅塵を避けてあえて隠者のごとくに風流な田舎生活を楽しんでいる・・・。



「・・・此所之城主多田山城守行綱之菩提所也。行綱之孫福寿丸・・・」
 関家も中原街道に面しているので(但し旧道は裏門、馬頭観世音がある通り)、徳川家康が鷹狩にたちよったという「いいつたえ」もあるらしい。中原街道筋には叡尊の「関東往還記」にみえる北条氏ゆかりの佐江戸無量寺や、鎌田堂などさまざまな遺跡や伝承があるので、おそらく鎌倉道でもあったはず。

 江戸前期の母屋は土間のついた田の字型プランであるが、一間12畳と広い。広間・でい(仏間)・茶の間(囲炉裏つき)・納戸の間からなり、それに8畳二間のはなれ(書院)が江戸中期に増築されている。庭つきのはなれは客間として用いたようだが、いまでは寒々とした母屋より、こちらのほうが寝るには狭くて暖かそうだ。また、母屋の真裏のはなれは新しい。

 他にも土蔵や井戸、谷戸の峰筋にかまえたささやかな東屋「松杉閣」がある。裏山には祠や屋敷墓があるようだが立ち入り出来ない。頂にある裏門ちかくには上述のごとく寿福寺も建ち、馬頭観音の向かいには多田行綱をめぐる寺の縁起文をほったばかでかい碑文も聳えている。ここを村境として「風土記稿」には十三坊塚という地名があったとか、西方の茅ヶ崎城を攻めるさいの「待つ場」であったとかいう伝承ものっている。茅ヶ崎城とは「せきれいの道」という公園化された谷筋を隔てるばかりだから、このあたりはとうぜん最前線の砦になっていたものと思われる。だとすると根小屋の位置に相当する関家が、鎌倉・室町時代から土着していた可能性も、よもやゼロとはいえまい。



浄光明寺(2017.12)
 むかし藤沢の大鋸(だいぎり)というところにゼミがいっしょの女の子がいた。大鋸というのは遊行寺をたてるときに使った巨大ノコギリにちなむらしく、古くは斧で割って手斧でけずったりしたから、板などを切りだすにもロスがおおかった。「徒然草」で、大量のおがくずを鞠庭に撒いた、と書いているのは、鎌倉の繁栄もさることながら、当時の建築技術も彷彿とする。

 勝田の領主・久志本内蔵家の菩提寺・最乗寺には、室町ころといわれるでかい銀杏が聳えていた。木は関家住宅よりも二百年もまえから生きている。人間は、ふしぎなことに一期一会とかいって、二度と会わないことの方が多い。確率的に言えば宝くじにあたるより、むかしの知人に偶然でくわすほうが高いはずなのに。いったん別の道にすすみ、すむ世界がちがってしまえば、山崎まさよしがいくら向かいのホームや桜木町をさがしても、いるはずもないわけだ。

 年々咲く花を待ち侘びたり、懐かしくかんじたりするのは、たぶんもっと歳をとってからだろう。人との再会をあきらめてしまっても、季節の花だけはたぶん記憶どおりに、なにも変わらず咲いてくれるのだから。



田楽辻子ほか
 ことしは鎌倉からさほど遠くない家の庭でも、楓(かえで)はあまり色づかずチリチリに枯れておちてしまう葉が多かった。京都では楓の天ぷらがあるくらいだから、生のまま赤く染まらなければほんとうではないのだろう。

 温暖化の影響なのかもしれない。まして鎌倉には台風で悪化した塩害もある。冷泉為相の「青葉の楓」はもともとそういう品種らしいが、鎌倉の紅葉はいまいち、というのは本当らしい。「錦屏山」として漢詩にもよまれた瑞泉寺附近も、満山錦繍とはいかない。観光客をあてこんだ素人パン屋の出店のワゴンで試しに買ってみたフォカッチャの味もまあ、おなじようなものだった。

 「秋をいろど〜る、かえ〜でや蔦は」とうたわれるように、楓だけが紅葉ではない。頼朝墓前の桜並木にもいっぱい赤いのがおちているし、雨で道ぜんたいに貼り付いてるところなんか、いい味だしてる。ところどころの民家の壁の蔦もいい。おととしは錦屏山ふきんでも、観光客が行かない支谷の住宅街では何本か、程よく赤い楓をみつけた。


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