トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第362号 


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もちださんの鎌倉リポート No.362(2020年1月9日)



No.361



野原―歌びとを訪ねて・8



トンネルの上のもうひとつの廃道
 名越の山々の
 麓を曲る小路に
 はみ出た蒼白な岩かどに
 海しだの墨色のみどり
 ふるへる
 たんぽぽの蕾
 あざみの蕾
 砂に埋れ
 小さい赤い実を僅かにつけた
 やぶかうじの根
 苔と落葉の中にふるへる
 この山々の静けさ (「旅人かへらず」9番)

 ノーベル候補にもなった詩人・西脇順三郎(1894-1982)が大町4丁目、知人H氏の洋館に疎開したのは昭和十七年の四月。「学問もやれず 絵もかけず 鎌倉の奥 釈迦堂の坂道を歩く 淋しい夏を過ごした あの岩のトンネルの中で 石地蔵の頭をひろつたり 草をつんだり」(28番)。二年後の十二月、隣の軍人家族が引っ越したのをみて鎌倉もいよいよと考え、故郷の小千谷に再疎開。渋谷の本宅は全焼、妙法寺ちかい鎌倉の洋館は空襲にこそ遭わなかったものの、すでにのこっていない。そののちは白金台にすんだ。



生前の詩碑とその原稿(影向寺。レポ160・234)
 詩集「旅人かへらず」1947は小千谷で纏められた。題名は「ハムレット」の、あの名台詞「このままでいいのか、死ぬべきなのか」のつづき、「どんな旅人も帰らない、それが私をまよわせる・・・No traveller returns, puzzles the will」を引用したとされる。ただこれが単に「死の国」や暗い戦争時代の象徴というわけでもないことは、「無限の過去の或時に始まり、無限の未来の或時に終る、人命の旅。この世のあらゆる瞬間も、永劫の時間の一部分。草の実の一粒も、永劫の空間の一部分。有限の存在は無限の存在の一部分。」(165番)などという思弁的な詩句からうかがえる。

 新潟の商家にうまれた西脇にとって、帰るべき故郷というのは特定の場所ではなく、「野原であり、またそれは永遠ということである」と説明する。「永劫の旅人」を自認するかれが愛したのは、永遠に繰り返し生育する野の草木の神秘であった。なんだか「父母未生の真面目」を追求する禅境のようでもある。

 疎開いぜんにも西脇は渋谷宇田川町(いまのセンター街の奥)から玉電にのるなどして、三軒茶屋(92番)・二子玉川(93番)・千歳村(61番。いまの千歳船橋・烏山あたり)などをたずね、川崎市宮前区野川(当時は宮前村)の影向寺などにも足をのばして、そのころの郊外の田園地帯、河原や藪林・崖や畑の多い、いわゆる武蔵野のおもかげを残すあたりを好んで散策した。ときには「与瀬から相模川」(65番)へ遠出することもあり、また「ここは昔広尾ヶ原」(165番)のように、以前すんだ麻布天現寺あたりに遠い昔の野原だったころを重ね合わせた詩もある。ちなみに与瀬とは今の相模湖駅のあたりだ。



廃道から見下ろす釈迦堂谷(裏門口)
 「のぼりとから調布へ 多摩川をのぼる 十年の間学問をすてた 都の附近のむさしの野や さがみの国を 欅の樹をみながら歩いた 冬も楽しみであつた あの樹木のまがりや 枝ぶりの美しさにみとれて」(42番)。十年というのは日中戦争以降、詩作の発表をひかえた昭和12年からの世相をいうのだろうか。

 西脇は幼いころより英語と絵にしか興味がなかった。英語受験で慶大にはいり、オックスフォード大に留学して英文学者の道にすすみ、母校の教授をつとめていた。「学問をすてた」とはどういうことか。反米英、敵性語追放運動でもりあがる政治的・世相的な配慮だろうか。ただ、失意のなかでめぐった郊外の野原が、彼の詩作における「永劫」へのまなざしを深めたのはたしかだ。同じ草木はイギリスにもあったし幼いころにもあった。自己の記憶のみならず、遥か昔の英詩人や芭蕉・西行もおなじものをみた。それは時空をはるかに超えたものだった。西脇は多くの雑草の標本ものこしている。

 むさし野を行く旅者よ
 青いくるみのなる国を
 知らないか  (77番)



足フェチ・・・?
 「雲の水に映る頃 影向寺の坂をのぼる 薬師の巻毛を数へる秋 すすきの中で菓子をたべる ・・・ なにのたたりかかぜをひいた」(83番)。昭和15年、美術学生とともにこの古仏の計測につきあい、螺髪をかぞえたり翌日熱をだしたのも事実らしい。翌年、句誌に随筆として、まず詩に先立って発表している(「夏から冬へ」1941)。

 西脇は野仏の銘文を読むくせがあったらしく、喜多見の寺で江戸初期「慶長年」の墓などを見つけて喜んでいた。当時はまだ情報がとぼしく、影向寺ちかくにある岩川不動など、中世以前の碑銘はみつけられなかったようだ。欅に彫られた影向寺の国宝(現・重文)仏についても両側の「天使」(脇侍)のほうが美しいといい、「まだ塗りが全部とれておらず、美しい足にはまだ白い塗りが、なんともいえず古めかしく美しい。その足指の美は今でも忘れない」などと綴っている。

 こういう随筆は戦時中の特異な環境でかかれたもので、ざんねんながら鎌倉の寺々については、くわしい記述はない。戦後もたびたび鎌倉をおとずれたものの、「磯にうちよせる波が小さく見える カマキューラの山々・・・」(「夏至」)とか「カメキューラの山々には ネムの木に花が咲きかける」(「失われたとき」)などといった韜晦的な表現にとどまった。それは土地の固有名詞というよりは、自身の旅した英国やイタリアの風光をかさねあわせた、時空を超えて普遍的な、「永劫」の表現だったからだろう。「旅人かへらず」の装丁にはなぜか外国人むけのみやげもののような、清長の浮世絵があしらわれている。



鷹姫(2012.11)
 「旅人は待てよ、このかすかな泉に、舌を濡らす前に。考へよ人生の旅人、汝もまた岩間からしみ出た、水霊にすぎない。この考へる水も永劫には流れない、永劫の或時にひからびる。ああかけすが鳴いてやかましい。時々この水の中から、花をかざした幻影の人が出る。永遠の生命を求めるは夢、流れ去る生命のせせらぎに、思ひを捨て遂に、永劫の断崖より落ちて、消え失せんと望むはうつつ。さう言ふはこの幻影の河童、村や町へ水から出て遊びに来る、浮雲の影に水草ののびる頃」。

 「旅人かへらず」の第1番。長いので散文式に引用してみたが、この物語はあきらかにイェーツの「鷹の井戸」だ。西脇が参考にした原典はしらないが、すくなくとも「鷹の井戸」の原型となったケルト神話に拠っている。永遠の生命をあたえる泉・・・背景を知らなければ正確には読めないのが現代詩の欠点なのかも。「英文学に通暁したインテリだけの、ひそかな楽しみ」「選ばれた者のための、極上のひととき」なんていうんじゃ、だれも虫唾が走るというものだ。

 この「鷹の井戸」は以前、能に改作されたのをみた。たしか「クーフリン」(旅人)は野村萬斎。この、涸れた泉をまもるドルイドの巫女「鷹の乙女」(前シテ・幻影の人?)の顔を眩しくてらしているのが、ふいに涌きだしたその神秘の水・・・なのだが、舞台装置では箱のなかの裸電球でしかなかった。開演まえに「これなんだろ」と、知らずに井戸の中身をみちゃったから(笑)。詩に「幻影の河童」とあるのは、水を横取りしようとつきまとう後シテの「老人」にあたるようだ。



「西脇順三郎の絵画」恒文社1982
 絵は藤島武治にまなび、画壇の大御所・黒田清輝にもあったことがあるらしい。素朴な画風はクレーとかルソーとかではなく、サント‐ヴィクトワール山なんかを雑にえがいた、後期セザンヌを理想としていたという。晩年にはピカソともコクトーともつかないような、落書きふうの絵ものこした。

 これは「鎌倉風景、衣張山」と題されているが、妙義山といえば妙義山なのだろうし、抽象的といえば抽象的だ。衣張山にはふたつのピークがあるが、これがそうだとするとどこから見た景色だろう。もちろん現実の鎌倉じゃなくて詩人の頭の中にだけある「カマキューラ」の景色なのかもしれないのだけれど。

 プロは絵葉書ふうの「ベタな」構図は好まないし、それは詩にもいえるだろう。もちろんお笑いタレントの永野さんがいっているように、「ピカソより、ふつうに、ラッセンがすき」という人も多いし、じっさい大衆レベルでは単純明快なものほど人気がある。それに表現を模索するうえではアカデミックな技法も、しらないよりは数多く知ってたほうがいい。「高尚」なものはあるいみ難解だし、説明もくどい。その革新性が「専門家」に理解され、売れるのもごくいちぶだ。佳作どまりの作家は多いし、だれかのまねなんかしたって、そんなものは掃いて捨てるほどあるのだから。



UFOに吸い込まれる人
 他にも多くの詩人たちがこの街をおとずれた。かつて名越山といった釈迦堂谷のトンネルは、いまや長らく通行止め。前回の田村隆一さんによれば「黒猫の待っているトンネル」だとか。ここではよく三毛に会ったのでどんな猫かと読んで見たら、黒猫ヤマトのトラックのことだった。当時も車輛止めはあったから、向こう側にとまってたのね。なんだ。「ヤング」ってことばが、今ではなんとも古めかしい。ヤンジャンとかセイヤングとかのヤング。田村さんの時代には、鎌倉情報といっても「ブルーガイド」くらいしかなかったから、いろんなものが新鮮だったのだろう。「腰越のブス猫」のことは「夜の江ノ電」にもでていたが、これは実際のねこで、「ティファニーであれやこれやと買い物を なさる方ではちょっと困ると」と天皇御製にうたわれたような金持ち女の暗喩、などではないようだ。

 蜂飼耳(1973-)さんの「馬の歯」を検索したら東大入試の現代文がヒットした。まったく今日び、情緒もくそもないね。・・・これは岩波の「図書」に伊藤比呂美さんの植物の話なんかといっしょに連載されていた随筆で、うそかまことか神奈川県の海岸で人骨や馬の歯が拾えるというはなし。2012年10月号「その海辺をたどる」では、大潮の日をえらばず和賀江島に行って、引き潮なのに渡れなかったというのだから、「神奈川県の海岸」とはその続きの話にちがいない。

 まあ現役の「詩人」のちょっと気取った作り話?を読むくらいなら、山田海人さんのビーチ‐コーミングのWeb頁をみるほうがいいかも。鎌倉Todayというサイトの「鎌倉好きあつまれ」とかいうタグで探してみて。


No.361