トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第366号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.366(2020年2月11日)



No.365
No.367



三渓園の浜辺で・2


 三渓園の数ある茶室のうちで、「春草廬」といわれるものはかつて、織田有楽(1548-1621)の希少な茶室・通称「九窓亭」の遺構であるという。伏見城内につくられ、もとは前号で触れた「月華殿」につながっていたらしい(月華殿のいまの茶室は新築)。茶人に与えられたあと三室戸寺をへて三渓の「白雲邸」に分離移設、戦時中は解体して疎開し、今の場所には戦後になって組みなおされた。

 「九窓亭」の本来の部分は左端にでっぱった、ちっぽけな三畳半ほどで、右側の水屋・広間は三渓による追加。茶室だけでは実用にはならず、茶室まわりには給仕の支度をするための水屋とか、客をあつめる広間(寄合)、にじり口まで客を導く「露地囲い」という小庭につくばい(蹲踞)・待合・雪隠などを置く周辺施設がなければならない。もっとも現在の見学優先の展示では「露地囲い」といえるかどうかは微妙。めぐりの柵や生垣はあっても低くて外が丸見えだし、文化財ではない待合あたりは通常の見学ルートでも通過できる形だ。


 鎌倉の一条恵観邸にあるのは数寄屋の一室(四畳)を利用した、にじり口のない広間の茶室。こちらの茶室は小間が独立した特製の茶室。踏み石の通う露地には有楽燈籠のほか、「夢窓国師の手洗い石」とつたえる天龍寺由来のつくばい、東大寺の「伽藍石」・岐阜城にあった踏み石「稲葉山」などと、由緒を説くものも・・・。

 また周囲には「四面仏のつくばい」(たぶん中世の宝篋印塔の部材)だの奈良法華寺ふきんからでた長持型石棺だの中国の「ナントカ石」だのが庭石ふうに置かれていたりする。これも利休いらいの茶道の趣味なんだろうけど、しぜん手に入ったのならともかく、度が過ぎればむしろうるさくて、遺跡破壊とすら感じさせ、グロテスク。「待ちわびる」の語がしめすように、「侘び」というのは、何か足りない風情でなくてはならない。侘しいからこんな密室に入るんでしょ。

 ときどき特別公開があり、建物内には入れないが窓やにじり口を開けてあり、近くから中がのぞきこめる(入りたい人は2〜3万円で時間貸しも可)。窓は外部に竹をならべた素朴な連子窓か、葦を組んだ下地窓(下写真では一部蔀戸を閉じてある)で、それぞれ内側に明かり障子を重ねる。これらを微妙に開け閉てして外光を調節した。大小縦横に開けられた窓は、それじたい前衛画家・モンドリアンのコンポジション(画面構成)のようだと評される。



窓(台目3・表1・側面2・裏2・床1)とにじり口
 間取りは床付き三畳台目。台目とは手前座が置かれた一畳よりややちいさい3/4程度の畳のことで、客の座(三畳)とは袖壁などでなかば区切られている。これは利休のころに発明されたもので、おそらく貴人にたいする遠慮から、じぶんの座は「次の間」「勝手の内」といったへりくだった感をあらわすためのようだ。台目の位置は表からみたとき、にじり口より右手前の張り出し部分(写真右上)。手元をてらす「風炉先窓」は3つもあってかなり明るい。おもてからは見えないが、反対側の張り出し(写真左端)は床の間だから、そこの窓は掛軸を照らすための「墨跡窓」。のこる三畳分(窓5つ)が客座ということになり、台目に接して炉が切られている。

 有楽斎(如庵)こと織田長益は、織部・三斎などとならんで利休十哲とよばれる風流人で、信長の弟。武人としては凡庸だったらしいが、姉のお市が産んだ浅井三姉妹・茶々(淀君)、初(京極高次室)、江(徳川秀忠室)には叔父にあたる。京極家は浅井の主筋にあたるから家格を整えるため秀吉が縁組をすすめたようだが、長益にしてみれば信長に続いて秀吉・家康というふたりの天下人の親族になったわけだ。遊び人にとって、人徳さえ保障されれば天下の事などどうでもよく、大阪の陣にいたっては豊臣の恩顧をうらぎる悪評だけは避けようとの思いから、両者に申し入れて隠居に入る。隠居料まで許されたのは信長の血筋への身分的配慮なのか。

 有楽の茶室としては名鉄犬山ホテルの如庵が、古図面や伝来などからより確実で代表的なものとされ、国宝に指定されている(九窓亭は重文)。そちらは古暦の腰貼りで知られる二畳半台目であるが、「二畳半、一畳半は客を苦しめるに似たり」と断じた有名なせりふとおり、五ヶ所の窓や突き上げの天窓があるなど、明るく開放的なテイストはにかよっている。そちらにはスライド式換気口状の「無双窓」、篠竹を密にならべた「有楽窓」もあって、光へのこだわりはつよかった。明るくしようにも風の日、斑らなこもれびが障子や部屋中をゆらゆらしてたら気が散って、きっと落ち着かない。当時の立地や建物の方角、木立のありさまが完璧に知られないかぎり、なぜ遮光したり開口したりしたか、その真意はわからないだろう。



聴秋閣と月華殿。襖の引き手にも葵
 ところで一条恵観邸は金森宗和好みといわれるが、その宗和が三畳台目の茶室をつくったらどうなったか。幸いそれは東京国立博物館の裏庭に移築され、「六窓庵」って名で残っている。興福寺の廃院・慈眼院にあったものといい、庭園公開の時期に近づくことができる。

 六窓も十分に多いのだが、有楽の九窓亭や如庵にくらべればそれぞれが小さく、明るさの印象は恵観邸の小間(3窓)に近いようだ。台目では手前座が極端に狭いので自慢の道具を飾るスペースがなく、袖壁の陰に仮棚などをつくりつけにするとか、給仕の導線を確保するため給仕口をもうけるなど工夫などがひつようになる。恵観邸の四畳の小間の炉は広間切なので亭主(恵観)のすわる手前畳にも余裕があり、こちらには大きめの窓もあるから台子(道具棚)を飾れるほか、時には寛ろいで囲炉裏をかこむように「密談」できる自由さもある。台子の茶とはもともと東山文化の遺産で、貴人がその飾りつけを誇るものだった。だから「侘び茶」の時代には貴人以外無用と考えられ、台目畳とはわざわざ台子分のスペースを切り取ってわざと狭さを演出・強調したものといわれる。

 もともと「侘び茶」の茶室は隠者・世捨て人の簡素な草庵をかたどったもので、「方丈記」にえがかれたように、分解して運搬可能なパネルを組み立ててたてるような華奢な造形をたてまえとした。もちろん贅沢な材をつかったり桧皮・杮葺きであったりするのだが、狭く軽快な構造であればこそ、耐震性などに煩わされることなく、素人が紙細工の模型をつくるように、自由な位置に窓をあけたり庇を延べたり棚をこしらえたりできたのだと思う。この点は、数寄屋づくりの建築構造にあらかじめ制約された恵観邸の小間のおよばないところだ。


 さて、戦後の移設物でも興味深いのは、旧矢箆原家住宅。合掌造りで有名な岐阜白川郷でも有数の豪農の、江戸後期にさかのぼる式台(*格式高い玄関)つきの豪邸。もとの「外苑」にも田舎屋はいくつかあったようだが、たぶんこんなに巨大で希少なものではなかったろう。縄がらみの分厚い萱葺きを保存するため囲炉裏も焚かれているし、裏の土手にはほんらいの屋敷墓の、古い墓石まで岐阜からわざわざ移設してある。

 ここでおもしろいのは、二階の蚕部屋まで階段がもうけられ、見学できるようになっていることだ。そこは農具や着物・陶磁器などが展示してあるに過ぎないのだが、屋根裏部屋といえばいまはロフトくらいしか知らないわたしたちにとって、ここまで広いと唖然とする。迷宮に迷い込んだような、ハクション大魔王の壷の中のような。ユダヤ人なら何人匿えるだろうか。ただ暗いし階段は急だから、寝不足で始終めまいがするような人には向かないかも。

 まだふわふわした足取りで大池のめぐりに咲き始めた紅白の梅を眺めていると、まだ小柄な猫があとについて来る。しまいにはすり寄ってきて、甘やかしても、あたまをくりくりしても、いっこうに逃げていかない。たぶんかわいがられて育ったんだろう。「修学旅行の生徒たちから安いケーキをもらったりしてさ」(田村隆一「狐の手袋」)。土・日でも、やや季節外れのすいてる時間帯にいくときっと誰でもモテるよ。仮に逃げられても、まあ、猫だし。



来て・まわって・ねだり顔
 三渓園のある本牧のランドマーク、四つならんだカマボコ屋根のような崖のすぐ下には、もとは海水浴や潮干狩りをする砂浜が広がっていた、と大女優・岸恵子さんが回顧している。遠浅の沖には海苔のヒビもあった。今は本牧十二天(跡地)から磯子・杉田にいたるまで街と石油コンビナートで埋め立てられ、壁や高速道路(湾岸線)などで、視界も導線もほぼ完全にさえぎられている。海面がみえる場所も近くでは八聖殿の上の藤棚(幕末の異国船見張り所跡)とか、ユーミンのファンにはおなじみの「根岸のドルフィン」とか、丘の上でさえもう数えるほどになってしまった。

 岸さんのみならず、そうそうたる鎌倉時代の禅僧たちが屏風が浦あたりの風光を詩によんだし、佐藤一斎は蘇東坡が詠んだ「赤壁の賦」になぞらえ、「本牧の海湾に壁有り、竦立すること数仭にして列びて四屏を為す」とつづった。黒船の乗組員は「マンダリン‐ブラフ(オレンジの崖)」と呼んで横浜入港の目印とした。砂浜だった崖下のいちぶには数すくない市営のプールがたっていたのだが、数年前より解体中。三渓園の海側出口ふきんには平成につくられた「上海友好園」もあるが、これも老朽化して池の渡り鳥なんかを外から見るだけだ。カイツブリ、ペンギンっぽい金黒羽白など、各種鴨類の、ありふれたやつ。

 本牧市民公園に黒松が多いのは浜辺のなごりか。D51や転車台が保存されていたり、グラウンドや芝生広場があったり、時折ジャズ‐フェスもひらかれる。かつて米軍接収地がおおかったから、中区図書館のリサイクル棚にもPaddingtonなどの洋書が並んでたりと、アメリカ文化がねづいたのだろう。さいしょに行ったのは「坂田明とミトコンドリア」がでた回だからだいぶ昔。ただこれも、近年は夏の野外開催はへってるようだ。



本牧のランドマーク。危険なので池でへだててある
 かよってる病院のまだ若い療養師さんが「アマチュアのビッグ‐バンドをやってる」といってたので、ひさしぶりにここを思い出した。ボサノヴァみたいのもやるよと聞いたけど、いまどき感心。「♫ つぐみ、ギター、残酷なまでの失望。残ったのはただそれだけ」(「P'ra machucar meu coração」)、歌えるのもそれだけ。私が子どものころにはまだマイルスも、ディジー‐ガレスピーやジョン‐ルイス(MJQ)なんかも生きていたし、いまよりジャズは身近だったような気がする。私の高校時代の友達は、いまもトロンボーン奏者として地味に活躍してるみたいだ。

 三渓が多くの古建築を買ったころ、まだ文化財はいちぶの好事家だけのものだった。でも好事家が買わなければそのまま腐っていったのかもしれない。失われた渚や、私たちの【ありふれた記憶】とおなじように。カラオケで演歌なんかうなってるオバちゃんだって、わかいころはジャニス‐イアンとかキャロル‐キングなんて聴いてたはずなんだ。

 そういえば鎌倉のご当地ソングってなにがあったっけ。調べてみると、演歌が多い。「鎌倉ブギウギ」は完全に替え歌だし、「カーニバルの歌」は銅拍子とクラリネットの合奏って、まんまチンドン屋じゃん・・・。YouTubeで「鳩サブレー」の歌とか素人がつくっているが、なんかいまいち。ネコカミの「Welcome to 西宮」みたいな、ストレートでへんに記憶に残る「(いい意味での)おばかソング」なら、ありそうな気がしたんだけど。私がうといだけなのかもしれない。 


No.365
No.367