トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第378号 


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もちださんの鎌倉リポート No.378(2020年5月4日)



No.377



カワセミのいるところ



県立四季の森公園
 県内にもいくつかカワセミの「撮影スポット」があるけれど、新型コロナの影響で外出自粛がもとめられているなか、わざわざこの時期に密集しないでもよさそうなものだ。さすがに人々のクラスター(塊り)には近づけず、さらに4m離れて、手持ちで撮影。いつもの古いコンパクト‐カメラでは、望遠を最大にしても、解像度はこんなもの。小魚を獲る瞬間なんて完全にブレてしまったが、べつにプロ(笑)をめざすわけでもないし。2分で退散。

 春の里山ガーデンは中止になり、「ルールを破って忍び込もうとする者」を厳重警戒中。ところが普賢象桜なんかが咲きのこったその外周エリアや、隣接の四季の森公園はいつも以上に繁昌しており、エアロゾルを撒き散らしてジョギングする人たちが、人混みを縫うように駆け抜けてゆく。できるだけ公共交通機関(バス)を自粛しようと、徒歩で寺にむかうつもりだったが、公園をショート‐カットしたのがまずかったみたい。ひとつを閉鎖したところで、人の密集はほかに流れるだけ。「ルールを破る者はずるい」、そればかりにひとびとの脳がこりかたまって、警備員はばかみたいに【無人の場所】を守らされている。他人を糾弾する喜び以外に、なんのいみがあるのだろう。


 閉園中のズーラシアまでくると、まったく人影がない。なんかのCMじゃないけど、あ〜んしん。禁止なんかしなくたって、静かな場所はあるのだ。谷におりると水道橋。ズーラシアができるまえ、いま園内にあたる山林には水道道がかよっていて、橋の手前には厳重に網がかかっていた。地元のとしよりには、子供のころ渡った猛者もいるそうだ。その後、飛び降り自殺者がでたとかして封鎖されたときく。

 笹峰というところから細い古道にはいる。いまは住宅街だけどいちおう町堺になっているし、道なりに登り下りすると上川井の神明神社にでる。古道は古くからの地権にはさまれ、近代の道とちがってけして平坦ではないが、昔ながらの「字(あざ)」を区切っていたり、寺社などを繋いでいる。そこから現在の16号(八王子街道)を瀬谷方面にすこしゆけば、長源寺(高野山真言宗)。鎌倉時代に都から【鎌倉笹目】につたえられた法脈、真言醍醐寺三宝院流を、室町・戦国時代に発掘し継承しようとした印融法印ゆかりの地。せっかく十二年に一度の御開帳なのに、カワセミのいたところとはうって変わって、当番の方三人に、参拝客はただ一人。観音堂で「ご接待」のお茶とあめ玉をいただいたうえ、寺務所に連絡して本堂まで見学させていただいた。

 印融法印が長く高野山に住んだというのは誤りで、生涯をほぼ新横浜ちかくの小机三会寺周辺に過ごした。こんにちの研究では、多数の著書や書写本にしるされた自筆の奥付から印融の動向を忠実に復元しており、旧来の根拠薄弱な伝記類よりはるかに確実といえる(横浜市歴史博物館「特別展 印融」図録1997。またレポ290、311、315参照)。密教学は当時の高野山ではなく、鎌倉の滅亡後、金沢称名寺を出て小机三会寺や柿生王禅寺を中興した「等海上人」の教線を逆に辿り、往時の【鎌倉密教の遺産】を丹念に蒐集していったものと思われる。晩年は後北条氏の台頭による戦乱にそなえ、はるばる青梅の杣保や浦和(さいたま市)方面に疎開し、主著を残した。



観音堂。右に本堂がみえる
 長源寺の本堂内陣には中央にちいさな大日如来を祭る厨子、左右に不動明王・弘法大師。天井には大日如来がえがかれ、左右に八祖の額や曼荼羅。手前の大壇には大日如来をあらわす金色の多宝塔(舎利塔・瑜祗塔)が置かれている。東密(真言)系の寺院としてはとくに何の変哲もないようだが、大日像の本体部分の尻下に「永正十年三月、印融奇附」、膝下に「令法久住、利益人天」、臍の内には「恵心作」の墨書があるらしい(下)。

 これによれば印融79歳1513の寄附ということになる。すなわち杣保隠遁の直前にあたり、あるいは旧住の寺が陣所として点定・立ち退きをせまられ、かさばる本尊は他寺に預け、重要な書物だけをもって所縁の寺(青梅・杣保即清寺)に遁れた、という事情が推察される。なぜなら主著「杣保隠遁抄」20巻などは多数の参考資料なしに書けるようなものではないし、わざわざ旅先で集大成のような主著を慌ただしくまとめたのも、老齢とさしせまる戦乱を背景として、各地に散在する数多くの弟子たちの疑問に、この先おちおち答えてはいられないという切迫した危機感がなさしめたものだ、と思われるからだ。

 墨書は自筆ではないが、伝記のあいまいな印融の動向を後世の者が矛盾なく偽造できるとはそうそう考えにくく、いちおう信用するに足る。「杣保隠遁抄」は翌十一年に杣保で宝生寺本が記され、十二年にかけて浦和延命寺において書写または増補がおこなわれ、十三年には寵童のために浄書が行われている。同十六年、榎下観護寺で没した1519とされるが、直前まで青梅にいたことが伝法印信から知られるので、遺体として帰ってきたのかもしれない。



像本体部分。「図録」の著者、遠藤広昭氏の講演(2017.10.30)から
 これは伝記の裏づけのみならず、詳細不明であった後北条氏の小机占領の時期を示唆するし、印融本来の隠棲地であった榎下観護寺が、現在地の小山町ではなく後北条氏の中興にかかる榎下城(現・旧城寺)ふきんにあったことを髣髴とさせる。現在地の小山は古文書に「八朔(郷)の内」と記され「榎下(郷の)観護寺」と呼ぶのは躊躇されるし、「風土記稿」には小山観護寺じしんの伝えとして印融は「旧城寺の住職」だったとしている。その時代に旧城寺はないから、たぶん大日像を処分した時点での榎下観護寺の所在を指した謂いであろうと推察される。榎下城は後北条時代の造営があきらかだから、しばらく寺はおけず、それゆえ小山へ移転したのだろう。

 観護寺(横浜市緑区)からであれば西に念珠坂をこえ、さきほどの水道橋のところから区境をこえれば長源寺(同旭区)はそう遠くないし、戦乱になっても適度に離れている。長源寺の鐘にきざまれた檀徒のなまえをみると榎下あたりにみられる、特定の姓が連続するような旧家はすくなく、法縁はともかく、地縁はあまりなかったように思われる。「川井宿」という呼び名もあるように、百姓とはことなる特殊な住民が多い地区だったのかもしれない。

 「風土記稿」によれば、そのむかし都筑郡川井村は伊勢神宮の荘園・榛ヶ谷御厨と称していたから、都筑というより鶴ヶ峰・保土ヶ谷(橘樹郡)あたりに属していた(現在「旭区」といっているのは、保土ヶ谷区から分区されている)。このへんは武蔵国都筑・橘樹・久良岐郡、相模国鎌倉郡などの郡境が錯綜しており、荘園時代にいったん古来の郡境が無化されたため、国名郡名は地縁の形成にさほどいみをなさないようだ。榛ヶ谷といえば畠山重忠を裏切ったとされる同族・稲毛重成の弟、榛谷重朝(?-1205)ゆかりの地。爾後、重朝とその子息は三浦一族によって、経師が谷で邸宅ごと焼き殺される。重忠謀殺の罪をなすり、口封じされたとも。・・・三浦一族としては、父祖義明がかつて重忠に殺されているから、たぶん遺恨があったんだ。



長運寺跡(GoogleMapより)
 長源寺にはほかにとりわけ古い物はなく、法面もコンクリだし鐘も戦時の供出のためあたらしい。今年の三十三所霊場で開帳となった秘仏十一面観音像も、端正で彩色も奇麗ではあるが、むしろ護摩の煤でくすぶった金色の御前立ちのほうが旧くみえるほど。「風土記稿」には一尺五寸の立像だとしているので別物だろう。ただ観音堂は参道の中軸線にあり、いくつか古い絵馬が掲げられ、接待に詰めていた奉讃会のひとびとも「寺の檀家ではない」といっておられたので、もともと観音堂のほうが現在の本堂より先にあったものと思われる。

 というのも、かつての本尊は観音であって、印融の大日のことは「風土記稿」にはみえない。「新編武蔵国風土記稿」1830は地元の書き上げを編纂したとみられることから、だいたいその当時の事実にもとづいている。あるいは大日は近在の別の廃寺にあった可能性もあり、さきほどの水道橋の手前、緑区三保町梅田にあった久保村・長運寺という廃寺の記述にゆきあたった。「本尊、大日座像にて長(たけ)一尺許りなるを安んず。開山詳らかならず」。三会寺末、長源寺と本末を同じくするうえ観護寺にも近いし、サイズ感(像高33cm)もだいたい合っている。

 ここは「梅田」バス停にあるローソンの裏路地にあたる旧家・峯尾さんのお宅の入り口左側の土手に、いっけん同家の屋敷墓かのように所在するのが実は歴代住職の卵塔場にあたっている。墓石によれば「大日堂」とも呼ばれ、江戸中期に観護寺の退去寮として大法師長栄なる者が住持したらしく(観護寺過去帖)、以下5代分の墓石もつたわるが、それ以前のことは不明、廃絶以後のことも明らかでない。文化五年(1808)に円了法師という者が再建した資料もあり、明治初めまで池などとともに残っていたらしい(苅谷定吉「(廃)長運寺」1972、緑図書館郷土資料。「大日堂さいこんの事」影印所収)。



中央は寸松堂のところからつづく道。廃寺の詳しい位置はもはや不明(GoogleMapより)
 大日如来像は真言密教の根本本尊でありながら、一般に信仰される阿弥陀や観音にくらべ、まつられる数はすくない。大檀の多宝塔がそもそも大日の三摩耶形だから、重ねて仏像としてまつる必要もなかったのだろう。近在の古仏としては蒔田・宝生寺本尊(覚園寺由来)や金沢・龍華寺のもの(江戸期以降に本尊化)などが知られるにすぎず、いずれも印融所縁の寺だ。印融寄附の大日が長運廃寺ゆらいのものであったとすれば、そんな希少な仏像がなぜまた川井の長源寺にわたったのだろう・・・。

 笹目遺身院を中心とする鎌倉の真言密教は、百数十年を経てようやく印融によって復興をとげたかにみえた。一時期の流行をうらづけるように、印融系統の文献はいまも全国各地におびただしく、のこっているという。だがそれも長くは続かなかった。江戸期には印融・ないし鎌倉密教の法脈は都界隈から一転、異端と決め付けられてしまう。高野山の復興など、困った時には大いに利用したくせに、本場上方の僧侶たちは、いつまでも中世東国の密教学に依存するみじめさに耐えられなくなったのであろう。そうして鎌倉密教の痕跡はふたたび忘れられてしまう。覚園寺の灌頂堂は鎌倉時代、開山智海の置文(遺言状)にも記載された由緒ある施設だったはずなのに、江戸初期にはなぜか破却され宝生寺に移されてしまった。

 密教に秘密なんてものはありはしないが、大本山などというものはおのれの権威を守るために、あたかもじぶんだけが重大な魔術を独占するかのようにふるまいたがる。印融による「密教の再興」なんて、大本山の内部いがいには必要なかったのかもしれない。下々の僧、末端の寺々には幼稚な神秘だけをわけあたえておけばよく、たとえば各地の神社は仏の化身だなどとし、真言寺院のおおくが神社に付属する別当寺の地位にとどめられた。国家の保護にかわって民間から広範に資金を吸い上げようと、堂守レベルの半俗聖、あるいは各地を放浪する念仏行者(高野聖)や唱道芸人などさえ抱合して、ふたたび密教を民間信仰レベルにまで頽落させた。近世には寺請け制度が戸籍がわりだったから、檀徒数を水増し、せいぜい葬式さえできれば教義なんかどうでもよかったのだ。



ここにもエタノール消毒が・・・
 中世には戦乱が続き、飢饉や疫病が発生し、いつしかそれが日常となっていった。ひとびとの苦難は神仏のさとし、前世の罰であるなどとして年貢の完済を強要した。仏教はすでに「人を救う」ものではなくなっていたのかもしれない。それはいまも同じ。日常は人々の感覚をなくしてしまう。とつぜん世界の終わりが来たとしても、それはあくまで漫画やアニメ、歌謡曲のなかのありふれた話だとして、だれも気付かない。在宅勤務のひまつぶしに宅飲みし、子供を連れて買い物する人、マスクもなくランニングに励む人、野鳥の撮影にいどむ人・・・死を目の前にしても、ひとは昨日と同じにしか生きられないらしい。幸せなんだか、何なんだか。

 三十三観音もこれで打ち切り(4.19まで)。今年は鎌倉まつりも相模川の大凧も開催できず、大仏もロックアウト。美術館も図書館も、なにもかも閉まっている。「十中八九」が死ぬ疫癘を治したという鎌倉大根(蘿葍・ハマダイコン)のことは「金兼藁」(*鎌倉稿の意)という江戸前期の文献にみえているが、鎌倉には来ないでくれって、知事。オリンピックも聖火リレーも中止(延期)、楽しみにしてた関連イベント「まさゆめ(・・・おじさんの顔が空に浮かぶ日)」も延期だって。一部企業では新型コロナの感染をふせぐため県境をこえるのも禁止だから、家族の葬式も納骨もできず、おちおち仏壇の菓子すら買いにいけないのだ。

 マスコミは当初、「中国はむしろ被害者」「クルーズ船は海の牢獄」などと、ありもしない差別を強調して触れ回り、自分以外の日本人を夢中で糾弾。いまなお特高警察みたいに非国民のあぶり出しにハッスルし、ひとびとを「三密の場所」へと追い詰める。あげくのはてには「中韓の対策に学べ」「韓流が今ブーム☆」などと、箸にも棒にもかからない独創的な見解を一方的にたれながし、ひとり快感にふけっている。紋きり型のパラダイム(思考経路)、自画自賛のテンプレート(型枠)。またか、と視聴者はおもむろにテレビを消し、新聞は番組欄さえ見ず、なにもなかったように時をすごす。長源寺のおばちゃんは、10万円一律給付の事もごぞんじなかった。ぬか喜びさせちゃったけど、メディアが煽るばかげた政局で一転中止にならないよう、祈るばかり。ちなみに、十一面観音は印融の「諸尊表白抄」によれば、諸尊のうちでも、とりわけ「除病・疫病・滅罪・福徳」によく効くらしい。


No.377