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もちださんの鎌倉リポート No.387(2021年1月9日)



No.386



中世を生きた和尚たち・忍性



西大寺蔵肖像より
 鎌倉幕府は1333年にほろび、鎌倉公方府は1455年にほろんで戦国時代にはいる。だから細かい記録文書はうしなわれてしまった。希代の名僧・極楽寺の忍性(1217-1303)についても、鎌倉におけるまとまった日記・著述等のくわしい記録がのこっているわけではない。だがその前半生は、師匠・叡尊(1201-1290)がみずから書いた自伝「感身学正記」からうかがえる。

 忍性(23)は、「七年前に死んだ慈母のため、奈良の七ヶ所の非人宿へ文殊菩薩の画像を供養するんだ」、という宿願に異常なこだわりをもった人物としてあらわれる。叡尊(39)もはじめは怪訝な思いをいだいたようだが、思えば自分も七つで母を失っている。古典仏教では女性(にょしょう)はみな、放っておけば地獄に堕ち、三界に流転することになっている。とすれば非人宿の遊女こそが、記憶の中の、若く美しいままの母、すなわち【いまこそ救済すべき魂】なのかもしれない。・・・

 いご、叡尊も弟子・忍性に引きずり込まれるように、非人救済や尼寺への布教に、傾注するようになる。若くして母をなくしたふたりの僧が、とつぜん難病をもつ子供をかかえたり、親の介護をせまられたりして、やむをえず非人宿にまよいこんだ女たちに共感するのは、ごく自然なことだったのかもしれない。



いたか「流れ灌頂流させ給へ。卒塔婆と申すは大日如来の三摩耶形」(国会図書館DL「職人歌合画本」伴信友・写)
 興正菩薩こと叡尊は、奈良西大寺や海龍王寺にすんだ。戒律の復興僧としては先輩格の覚盛(1194-1249。唐招提寺)をはじめ、無数の朋友や弟子、協力者にもめぐまれた。古寺マニアならかれらが中興した寺がいまも奈良周辺に数多くあることを知っているだろう。ただ叡尊・忍性がたんなる戒律を復興した旧仏教の碩学のひとり、・・・にとどまらず「菩薩」とさえよばれるまでに至ったのは、貧民・病者・非人救済という社会事業を、【大規模に】ともなっていたからにほかならない。

 叡尊らは非人宿に法要をおこない、そのさいの寄附の実入りで乞食に粥や銭(鵞眼一連=97文)をあたえたり、遊女らに菩薩戒を授け、よりよい生業を教えたり、深酒などのぜいたくで堕落した生活に依存するのを誡めたりしたようだ。当時の非人宿には基本的に租税を免除された職人・遊女・芸能者などが属していたほか、町や村を追われた浪人・逃亡者・乞食・病者なども流れこんでいた。非人差別の一因は革細工などの殺生を伴なうものだったから、ふたりは「殺生禁断」の誓約書を非人宿にださせ、戒律にしたがった生活を提案した。

 たとえば京都・宇治のばあい、鵜飼をやめさせ、網を焼き、網代を壊し、川の中州に舟や漁具を埋めてその上に十三重の石塔(*現存)をたて、宇治橋を修造した。「殺生禁断」はかつて白河法皇も実行したが、叡尊のばあい「既にして漁人に教へて、曝布(*麻布の漂白作業)を活業と為す」とあるから、雇用の創出にもつとめたのだろう。架橋・石塔建立などの土木事業も、布施をあつめ、労働者に還元するしくみ。従来、墓掘り非人などはしばしばピンハネにあい、腹いせに喪主の家に集団でおしかけて「ゆすり」をおこなった。また、非人宿に預けられる「病者」の世話をくいものにして、法外な条件をつけたり、拒めば感染者一家の個人情報を近所中に触れ回る、と脅すものもいた。こうした自滅行為や弱者同士の潰し合いも、叡尊らは逐一調べ上げ、かたく誡めるよう、誓約書に同意させている。



忍性五輪塔
○ 極楽寺の良観上人は上(かみ)一人より下(しも)万民に至るまで、生身の如来と是を仰ぎ奉る。彼の行儀を見るに、実(まこと)に以て爾(しか)なり。飯島の津にて、六浦の関米を取つては諸国の道を作り、七道に木戸をかまへて人別の銭を取つては諸河に橋を渡す。慈悲は如来に斉(ひと)しく、徳行は先達に越えたり。 

 良観房忍性の鎌倉での活躍を、同時代資料として客観的に示しているのは、日蓮の「聖愚問答抄」1268。忍性に嫉妬する日蓮は、自問自答してみずからこうした認識をいだきつつも、それは「愚人」の説だとしてかなぐり捨て、かたく否定し、強引に退けている。ただ否定の論旨はきわめて幼稚なものだ。「律僧の振舞を見るに、布絹・財宝を蓄へ、利銭・借請を業とす。教行既に相違せり。誰か是を信受せん。次に道を作り橋を渡す事、還つて人の歎きなり。飯島の津にて六浦の関米を取る、諸人の歎き是れ多し。諸国七道の木戸、是も旅人の煩い只だ此の事に在り」。

 ・・・なら日蓮、さっさと法華経の法力で無数の貧民の飢えを満たし、自前で道を作り橋をかけてみろ。何の実践もできないまま、他人にばかり要求する。「彼(元寇)を調伏せられん事、日蓮に非ざれば叶う可からざるなり」などと豪語しながら、ぐずぐず条件をつけ無理難題をふりかざし、他人頼みの要求ばかりで結局はなにもしない。そもそも法華経の法力とやらのスイッチはいつ入るのか。だれが押すのか。「法華の行者は日蓮ただひとり」というなら、他にひとりでも信者を得たなら、おまえの言葉は成就しない。教行既に相違せり。問い詰められた挙句、誰もいない身延の山へと逃亡し、死ぬまで逆恨みをつのらせつつ、来もしないハルマゲドン(第三次元寇)が日本を襲い、論敵をこらしめることを、ただひたすら期待しつづけるほか、道はなかった。日蓮が捧持した法華経には、「けわしい山の上には、けして蓮華(*正しい教え)は開かない」と明記している。



桑ヶ谷療養所の碑
 社会事業には、莫大な財源もひつよう。布施(福田)には尊敬する人にあたえる(敬田)・謝恩のためにあたえる(恩田)・人助けのためにあたえる(悲田)のみっつがある。金沢実時の招きで一時鎌倉に滞在した師・叡尊の行状は、弟子のまとめた「関東往還記」にくわしいが、執権時頼による所領寄進の申し出を再三断わった。時頼の条件は寺を建て住職となることだったので、叡尊の本意ではなかった。のちの禅僧なども、建長寺などの栄職就任をしばしば断わっているが、ひつようなのは清貧そのものではなく、営利をなんのために遣うかだ。

 たしかに、忍性は大仏や二階堂永福寺の別当、上方では東大寺・四天王寺など無数の栄職に就任し、大量にカネをあつめた形跡がある。権力者の命令で雨乞いや異国調伏などの祈祷・法要も精力的にこなした。しかしそれは目的があってのこと。本朝高僧伝によれば、「初め副元帥平時宗(*1251-1284)、療病舎を桑谷に作り、土州大忍荘を附して其の求めに待(あ)つ。平帥の薨後、性(*忍性)、財を纂補し日に往きて看病す。二十年間に五万七千二百五十人を養ふ」などとあって、パトロンを失えば巨額の経費を自弁しなければならなくなる。関米といっても一石一升、1%だから商人の利益(掛け値)にくらべればたかが知れている。広く浅く、大規模におこなわなくては意味がない。豊かな信者にぼたもちや干し柿を恵んでもらって、他の誰に施すでもなく喜んでいるやからには、けして真似はできない。雨が降りそうになってから雨乞いを始めてじぶんの「念力」をほこるなど、ばかにでもできる。

 日蓮宗の伝承では、「桑谷の龍象房という僧は、忍性が寵愛する同性愛相手だった」とか、ハンセン病治療の為に「人の骨肉を朝夕の食物とする」「鎌倉の中に又、人の肉を食ふの間、情ある人恐怖せしめて候」とか伝えている。ただ、これらの風聞は日蓮側が一方的にひろめていたもの。「頼基陳状」1277によれば、龍象房は忍性を慕って京都からきた僧で、頼基らは龍象房の法話にのりこんで勝手放題に妨害したうえ、お上のお叱りに反論するため、更にでまかせのうそを重ねて忍性を中傷し、ほしいままの自己弁護にふけっていた形跡があらわだ。むしろこうした破廉恥な詐話を通じて、商人などゆたかな新興階層が多かったとされる日蓮宗徒から、中世の非人・病者がいかような偏見・差別を受けていたかがうかがい知られる。



弦売り「弦召し候へ・・・」(弦めそ、犬神人)・女めくら「伊東が嫡子に、河津の三郎とて・・・」(瞽女、曽我語り)
 忍性は、もともと常陸の三村寺にみずからの意思で下向し、すでに十年ほど関東に滞在していた。その後、北条実時の招きで奈良からやってきた師・叡尊の推薦で正式に幕府に近づき、叡尊の代理として鎌倉に定着、活躍をはじめた。叡尊の高弟のうちでも、あらかじめ東国の情況を知悉していたゆえの抜擢だったようだ。名声は上方にもひろがり、朝廷の要請にも応えるかたわら、90まで生きた師を訪ね、たびたび奈良へも帰ったから、硬い花崗岩の多い上方の石造技術者を関東にもたらすなど、産業の創出にも寄与した。

 事業は出資者をあつめる経営者の個性・行動力によるところが大きい。「大鼻菩薩」とあだなされるユニークで愛敬のある容貌や性格、休むことを知らない体力は、けして努力では得られない、生得のものでもあったはず。後継者もそれなりの人物だったにちがいないが、かれらの事蹟はとぼしく、惰性で続けてきた事業はやがて息切れし、寺を維持するのみとなっていっただろう。忍性のあとをついだ極楽寺二世円真房栄真(1227-1315)・善願房順忍(?-1326)・本性房俊海(?-1334)のあたりで、鎌倉時代は突然終ってしまう。

 もはや非人たちは自活するしかなかった。ハンセン病の感染力は弱く、桑ヶ谷でも約8割は生存したとはいえ、生きたら生きたで、生活費が必要。当時は医療も十分ではなく、入所まえにすでに全身が糜爛し変形した者もいただろうから、回復しても感染源と誤解され、いつまでも世間に怖れられていたのは確か。自身のため家族のため、覆面までして身を隠しつづけなければならず、自活のすべは限られていた。鎌倉末期から大量に掘られた「やぐら」の掘削も、あるいは社会事業の名残なのかもしれない。それは山の中で人目に触れない作業なのだし、もともと土掘り(黒鍬)や石切は広義の非人のテリトリーだったから。「感身学正記」には奈良般若寺の再興にあたって、「北山の非人に課して地形の高下を正さしむ」などと記されている。



鶴岡八幡祭礼図巻より
 江戸期の「浅草弾左衞門由緒書」によれば、「私先祖、摂州池田より鎌倉へ罷り下り候の処、長吏以下の者共、強盛為るに依り、私先祖へ支配仰せ付け為さるる事。頼朝公御證文は鎌倉八幡宮へ奉納し候。右證文の儀に付き、別当よりの御書付等、御座候。之に依り先例に任せ、今に八幡御祭礼の御神楽等の節、先達の供奉、調理共烏帽子・素袍、或は麻上下着仕り出勤申し候」とある。「先達の供奉」とは祭りの先立ち、神輿巡行のお先払いのこと。鎌倉では主に「面掛け行列」と称する特異なスタイルで、いまも坂ノ下の権五郎神社の例祭やいくつかの臨時祭の行事にのこっている。もちろん今日では非人とは無関係であり、すでに鶴が岡では廃止されている。

 極楽寺金山の長吏部落はかつてさまざまな職業でにぎわったらしい(レポ24)。中には笠縫や革染め、唐人瓦師などのように、朝廷が奈良時代いぜんから前科者や帰化人の雇用対策として、散所の官奴に独占的に商わせていたものも多く含んでいる。革をつかう草履はともかく、菅笠なんかは農家がよなべでも作れそうなものだが、市での商いは非人にしか許されないとなると常民の副業が制限される。そのうえ租税が免除だなんて、ずるい。差別のきっかけは、そんな他愛のないものだったのかもしれない。

 長吏部落はやがて八軒をのこすのみとなり、衰退にむかう。もちろん病者や困窮者が減ったのではなく、近世になるとカネになる職業はみな常人にうばわれ、風俗芸能などの一面は興行権をむさぼる【やくざ稼業】に変質するなどして離脱、みな大都市にながれていったのだ。近世には主に丹裘役といって鶴岡八幡の石階を掃除し、時に人や鳥獣の死骸(穢物)をかたづける「清目」や、祭の先立ちをつとめた。かれらは中世、都では犬神人などとよばれたが、この称は鶴岡八幡の記録(「鶴岡事書案」続類従)にも散見される。



客「田舎人にて候」つじ君「見知り参らせて候、入らせ候へ」(ndl)
 差別・貧困はこんにちの問題でもある。おまえの家がびんぼうなのは、おまえの両親がだらしないからだ、学歴がないからだ、前科があるからだ、ちゃんと貯金していなかったからだ、おまえの服装・髪形が校則に違反しているからだ、おれの「思い通り」にならなかったからだ。・・・そんな【他罰的要求型】のロジックはいまも生きている。救えない理由から目をそらすため、見放す理由を他人はまず第一に考える。問題はもはや、祖先の屠殺とかいった「遠い出自」に関する偏見ではない。

 人並みに生きられなければ、その時は死ね、それが人間だと、武田鉄矢はうたっている。たしかに、暴力団やブラック企業など、社会にひつようのない集団はすくなくない。いぜん奈良県で同和関係の職員が長年、不法行為のかぎりを黙認されていたことが発覚、問題となった。「差別解消のための優遇政策(affirmative action)」が堕落と不正の温床となるならば、それは解消どころか差別を作り出してきた歴史的な営みをふたたび繰り返しただけだ。結果として同和出身者を「犯罪モンスター」「福祉にたかるダニ」にまでスポイルしてしまったのだから、それは慈善どころか偽善、人権への深刻な裏切り行為だといえよう。

 自分で学費を稼ぎたいとか、借金を返そうとか、同棲して恋人を養おうとか、はじめは殊勝な志で夜の町にはいった若者たちも、やがて仮の人格(アバター)が現実を浸食し、やがて元の目的をみうしない、自主退学したりして風俗のくらしに慣れきってしまう。いちど失った希望は、そう簡単に取り戻せるとは限らない。かれら自身に【責任】があるのだとしても、かれらは何度も社会から見放されてきたのだ。「リモート授業で、安全」「甲子園がなくなってさびしい」などと、みずからの利得の範囲でしか智慧を絞りだせない文化人など、たんなる無策でしかない。忍性らはどうしたか・・・その問いは、いまも続いているのだ。


No.386