鎌倉幕府は1333年にほろび、鎌倉公方府は1455年にほろんで戦国時代にはいる。だから細かい記録文書はうしなわれてしまった。希代の名僧・極楽寺の忍性(1217-1303)についても、鎌倉におけるまとまった日記・著述等のくわしい記録がのこっているわけではない。だがその前半生は、師匠・叡尊(1201-1290)がみずから書いた自伝「感身学正記」からうかがえる。
忍性(23)は、「七年前に死んだ慈母のため、奈良の七ヶ所の非人宿へ文殊菩薩の画像を供養するんだ」、という宿願に異常なこだわりをもった人物としてあらわれる。叡尊(39)もはじめは怪訝な思いをいだいたようだが、思えば自分も七つで母を失っている。古典仏教では女性(にょしょう)はみな、放っておけば地獄に堕ち、三界に流転することになっている。とすれば非人宿の遊女こそが、記憶の中の、若く美しいままの母、すなわち【いまこそ救済すべき魂】なのかもしれない。・・・
いご、叡尊も弟子・忍性に引きずり込まれるように、非人救済や尼寺への布教に、傾注するようになる。若くして母をなくしたふたりの僧が、とつぜん難病をもつ子供をかかえたり、親の介護をせまられたりして、やむをえず非人宿にまよいこんだ女たちに共感するのは、ごく自然なことだったのかもしれない。
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