日蓮宗の高僧の武勇伝は数多く伝えられていて、将軍足利義満や義教に直訴して体罰をくらったり、はたまた得宗北条高時の面前で上々の法論をかわしたり、織田信長の御前で敗訴したりと、さまざまだ。祖師日蓮がそうであったように、【弾圧】もまた「真の行者たるあかし」として宣伝になったから、仮に権力者に手厚くもてなされてもあえて反抗、「他宗僧侶の皆殺し要求」などといった受け入れ難い無理難題をふっかけて将軍を怒らせ、茶の湯の熱湯をかけられても黙らず、大音声をあげ、みずからすすんで半殺しの目に遭い、担架(塵取輿)にのって嬉々として帰宅、ついに念願の「弾圧」を受けたと、じまんげに記録するものもいた(日仁・日運「門徒古事」1425)。
「方々ニ横行シテ法花経ヲ談ジ、諸宗ノ仏法ヲ嘲リ宗論ニ及ブ、ソノコロ無双ノ悪比丘ナリ」(長禄寛正記)とされた冠鐺上人こと日親(1407-1488)もまた、足利義教に灼熱に焼けた「鍋かぶり(冠鐺)」の体罰をうけたことになっている。ただしこれは、日親二百年遠忌にあわせ上演されたとみられる「浄瑠璃本・日親上人徳行記」(1687刊)によってひろまった伝説らしい。同書は「竹本義太夫正本・作者近松門左衛門」とされ、元禄らしい古拙な挿絵が添えられている(左)。
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