鎌倉十橋

徳川光圀が、1674年に鎌倉を巡視した見聞録を「鎌倉日記」として纏め、その後家臣の河井恒久等に命じ「新編鎌倉志」(1685)を編集しました。
その「新編鎌倉志」のなかで、「鎌倉十橋とは、琵琶橋、筋違橋、歌橋、勝橋、裁許橋、針磨橋、夷堂橋、逆川橋、乱橋、十王堂橋」と述べられています。

十王堂橋(じゅうおうどうばし)

JR北鎌倉駅から鎌倉街道を大船方面に行くと、街道の下に通る小袋谷川があり、この流れにかけた橋が、「十王堂橋」です。
昔、この付近に薬師堂と十王堂があったことから、その名がついたとされています。
現在は薬師堂も十王堂もありませんが、このお堂の十王像は円覚寺塔頭の桂昌庵に移されたといわれています。

針磨橋(はりすりばし)

現在は石碑から、案内板に

江ノ電極楽寺駅から稲村ガ崎方面に進むと十字路があり、その道路の下を流れる極楽寺川に架かる橋が「針磨橋」です。(別名「我入道橋」)
極楽寺に我入道という僧が住み、針を作る仕事をしていたことからこの名前がついたと言われています。
石碑には、「針磨橋 鎌倉十橋の一にして 昔この付近に針磨(針摺)を業とした者が住んでいたので この名ありといふ 昭和13年3月建 鎌倉町青年団」とあります。

葛飾北斎の「鎌倉・江ノ島・大山  新板往来双六」に「針磨橋」が描かれています。

琵琶橋(びわばし)

JR鎌倉駅より若宮大路を海岸方向に進んだ先の下馬交差点付近にあるのが「琵琶橋」です。
昔は擬宝珠のついた朱塗りの木橋が架かっていたとのことですが、道路改良工事によりコンクリートの暗渠となり、その代わりに、装飾用の親柱と高欄が設けられたとのことです。

親柱にある案内板には、以下の通り記されています。
「若宮大路の二の鳥居から一の鳥居までの間は琵琶小路とよばれ、橋の名はこれにちなんで名付けられたという。昭和30年頃までは、擬宝珠のついた朱塗りの橋であった。
琵琶小路の由来は、道筋に弁財天をまつる祠がありこのため道が曲がっていたが、その曲がり具合が琵琶の曲線に似ていたことによるとする説と弁財天が琵琶を抱いていたからとする説とがある。
なお、祠は鶴岡八幡宮の池の傍らに移され、道をまっすぐにしたと伝わる。琵琶橋は、若宮大路を横切って滑川に注ぐ佐助川に架かり、鶴岡八幡宮参道を維持する上で古来から重要な箇所である。また、和田合戦の舞台の一つになったという伝承から、軍略上の拠点箇所でもあったと考えられる。」

乱橋(みだればし)

JR鎌倉駅より徒歩20分ほどの妙長寺をさらに海岸方面に進んだところにある小橋が「乱橋」です。
見落としてしまいそうなぐらい小さい橋なので、橋の側にある碑を目印にしてみてください。
路の東側の碑の正面に鎌倉保勝会建立の橋標があります。

石碑には、「乱橋は、濫橋とも書く。石の橋である。橋の南に連理木があって知られている。「吾妻橋」の宝治2年(1248)6月(新暦7月)18日寅の刻(午前4時頃)、橋の付近100m南に雪が降り、辺りいっぺんは霜がおりたようだ。辻町と材木座との境の小流に架けた逆川橋と共に、鎌倉十橋の一つである。 昭和4年3月鎌倉町青年団」とあります。

逆川橋(さかさがわばし)

大町四ツ角の側にある魚町橋先の路傍に少し傾いた橋標があります。その橋標の脇の小道にあるのが逆川橋です。
鎌倉の川は山側(北)から海側(南)に流れていますが、逆川橋の下を流れる川は、川の向きを北西方向に変え、逆川橋の下を北に進み小町大路の魚町橋にて南西に流れてから滑川に合流する。このように海側より山へと逆方向に流れていることから、逆川橋と名称がついたと考えられています。

夷堂橋(えびすどうばし)

夷堂橋は、本覚寺山門の前に架かる橋です。
鎌倉十橋の多くは滑川の支流に架けられているのに対し、夷堂橋は滑川の本流に架かられていて、橋の規模は他の鎌倉十橋より大きい橋となっています。
江戸時代の地誌、新編鎌倉志に「夷堂橋は、小町と大町との境にあり。座禅川の下流なり。昔は此辺に夷三郎社ありしとなり。今はなし」と述べられています。

筋違橋(すじかえばし)

筋違橋は、鶴岡八幡宮東門側にある横浜国立大学附属小中学校正門前と金沢街道との交差点にあります。
碑と橋標をみると橋の名称が、碑は「筋替橋」、橋標は「筋違橋」となっていますが、吾妻鏡には「筋替橋・須知替橋・須地賀江橋・違橋」と多くの名前が使われていて、橋の名称だけでなくこの付近の地名としても使われていたようです。

現在では道路拡張工事で暗渠に代えられ、石碑と橋標のみで橋はありません。

歌の橋(うたのはし)

歌の橋は、JR鎌倉駅から徒歩25分、またはバスにて杉本観音下車、金沢街道沿いの杉本寺から西側へ150メートルほど進んだところにある橋です。
二階堂川に架かる橋で、「かながわの橋100選」に「夷堂橋・歌の橋」で選ばれています。

謀反人として捕らえられた渋河兼守が処刑される前日の夜に和歌十首を作り、荏柄天神社に奉納。
その和歌を見た源実朝は直ちに渋河兼守を許した。その恩赦に感動した渋河兼守が、将軍の恩に報いるために二階堂川に橋を寄付し、その時に作られた橋が「歌の橋」となった、と言われています。

勝ノ橋(かつのはし)

勝ノ橋は、寿福寺の門前に橋標と敷石が残るのみで現在、橋はありません。
この橋は江戸時代につくられたそうで、鎌倉十橋の他の橋より歴史が浅いとされています。
英勝寺を開基した英勝院尼(勝の局)が橋を架けたことから、その名前がついたとのことです。



裁許橋(さいきょばし)

裁許橋は御成小学校近くにある佐助川に架かる橋です。またの名を「西行橋(さいぎょうばし)」と言われています。
御成小学校正門前に問注所跡の石碑があります。昔この付近に問注所があり、判決を受けた罪人が処刑場に連れて行かれる時に、渡ったことから裁許橋と呼ばれたそうです。
また、西行法師が鎌倉に来て、この付近をよく通っていたことからこの名前がついたとのことです。