鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第13号(2010年1月8日)

悲運の武将畠山重忠

武蔵武士 畠山重忠

畠山重忠公碑  横浜市旭区鶴ヶ峰

区役所裏側 畠山重忠公の首塚  

長寛二年(1164) 重忠は平安末期の武州大里郡本畠村畠山の館に生まれた。父は「畠山重能」母は「三浦義明」の娘。

*治承四年(1180)十月四日 安房へ逃れた頼朝は勢力を増し武蔵へ進軍した。重忠はこの動向を察知手勢五百騎をひきいて、「長井の渡」に古びた一本の白旗を立てて頼朝を出迎えた。

「白旗は源氏の象徴おのれ源氏面の白旗は何事ぞ」重忠少しも悪びれず、「代々源氏の出陣に先頭にひるがえす習わしでござる」頼朝はこの一言に感動し鎌倉入りの栄えある先陣を申しつけた。

*文治五年(1189)七月十九日 頼朝は奥州の藤原氏を討伐するため鎌倉を出発した。その先陣を命じられた重忠は軍勢の先頭に「鍬」や「鋤」をかつがせてきた。重忠の思慮の深さが城郭の堀を埋めるのに役立ち、人馬の侵攻に役立った。

*建久元年(1190)十月三日 頼朝が初めて上洛する際の大行列の先陣を命じられた。先陣「畠山重忠」「黒糸威しの鎧」を着先陣の隋兵が三騎ずつ六十番まで列が続いたあと、頼朝が続き更に後陣の隋兵三騎ずつ四十六番まで続く見事な行列であった。

*元久元年(1204)十一月二十日 「平賀朝雅」と酒宴の間に「畠山重保」は「口論の儀」ありとある。

初代執権「北条時政」の後妻「牧の方」が自分の娘婿「平賀朝雅」と「畠山重保」が不仲になって対立し、「牧の方」が時政に讒言し「畠山重忠」を謀反人に仕立てあげた。鎌倉に反乱が起きたと知らせがきた。重忠は先に「重保」を鎌倉へ行かせた。 

「北条の陰謀ですおやめくだされ」「いざ鎌倉真っ先に駆けつけるのが武士のたしなみ」
重忠に従うのはわずか百三十四騎だった。
一万騎もの大軍を率いる「北条義時」と二俣河のほとりで行き合わせた。
「ここで引き返せば謀反の心ありと汚名を後世にまで残す・・・・・」
重忠と主従百三十四騎は大軍の真っ只中へ突入していった。重忠四十二歳だった。


「畠山重忠」は元久二年(1205)六月二十二日に横浜市旭区の二俣川付近で、鎌倉幕府の大軍と戦って戦死しました。区内の二俣川から鶴ヶ峰にかけては重忠ゆかりの史跡が多く残っています。これらの史跡は旭区民が重忠に親しみをもち、大切に守ってきたものです。旭区では毎年重忠の命日には旭区観光協会も協力し、区民の方々だけでなく、岩手県・埼玉県・静岡県・東京都などから末孫など、重忠ゆかりの方々をお呼びして区内鶴ヶ峰本町の「薬王寺」において「慰霊祭」が行われています。
「旭区ふるさとの歴史再発見」冊子より

















畠山重保 由比ガ浜で謀殺

畠山重保 墓塔 (由比ガ浜)

*元久二年(1205)六月二十日 「畠山重保」が武蔵国より鎌倉に着いた。

*元久二年(1205)六月二十二日 由比浜で謀叛者が誅殺されるとの事で重保と郎党三人で向かったところ「三浦義村」等に重保は囲まれ、その場で殺された。

頼朝の命により畠山重忠が建立

佐助稲荷神社(本殿)

参道入り口

神霊が夢に立ち挙兵をすすめた。頼朝は兵を挙げて戦いに勝利し「畠山重忠」に命じて社を建立させた。

鳥居の立ち並ぶ参道入り口に縁結び十一面観音が祀られている。