鎌倉二十四地蔵尊霊場

第一番・宝戒寺

【子育経読地蔵(こそだてきょうよみじぞう)】

宝戒寺は、東勝寺で自刃した北条高時の霊を慰めるため、1335(建武2)年に後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建てられたお寺。萩の名所として知られ、「萩の寺」とも呼ばれています。お寺の本尊でもある子育て経読地蔵尊は「宝戒寺門前で子供が生まれそうになったとき、子どもをとりあげる世話をしてくれた見知らぬお坊さんが地蔵の化身だった」とか、「毎晩夜中に聞こえる読経がお地蔵さまではないか」という伝説から名付けられたと言われています。

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第二番・来迎寺(西御門)

【岩上地蔵(がんじょうじぞう)】

来迎寺は、一向上人が鎌倉時代中期に建てたと伝えられている寺で、西御門の閑静な住宅街にひっそりと建っています。細かいところにも手入れが行き届いた気持ちの良い寺で平成になって改築された本堂には穏和な笑みを浮かべた如意輪観音が安置されています。
岩上地蔵は、本尊の如意輪観世音と供に本堂に祀られています。岩のような台座に座っている姿からこのように呼ばれます。報恩寺→太平寺→法華堂を経て、来迎寺に移されました。

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第三番・覚園寺

【黒地蔵(火焚き地蔵)】

黒地蔵は本堂の薬師堂手前に建つ地蔵堂の中に祀られています。業火に焼かれる罪人の苦しみを和らげようと、地獄の番人に代わり火焚きを行い、そのため焼け焦げてしまったといわれています。「黒地蔵」や「火焚き地蔵」とも呼ばれ、両側には黒地蔵の分身とされる千体地蔵が並んでいます。

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第四番・杉本寺

【身代地蔵(みがわりじぞう)】

杉本寺は鎌倉最古の寺として知られています。裏山には、杉本義宗によって築かれた杉本城がありました。「身代地蔵」は杉本寺には二つあり、一つは観音堂の中に祀られる運慶作といわれる立派なお地蔵さま。もう一つは観音堂の脇に並ぶ六地蔵と共に一番右に祀られた「杉本太郎身代地蔵」という伝説を持つお地蔵さまです。三浦氏の勢力争いの時、杉本太郎義宗に放たれた矢が地蔵に当たり、傷跡から血がにじみ出たと言われています。

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第五番・光触寺

【塩嘗地蔵(しおなめじぞう)】

光触寺は、1279年(弘安2年)の創建。もとは真言宗の寺であったというが、開山の作阿が一遍に帰依し、時宗に改めらました。本堂に向かって左手に地蔵堂があり、六地蔵の後ろに座っているのが塩嘗地蔵。昔、六浦の塩売りが朝比奈峠を越えるたびに、商いの初穂として塩をお地蔵様に供えたが、帰りには塩が無くなっているので、お地蔵様が嘗めたのだろうということでこの名がついたといわれています。

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第六番・杉本寺

【尼将軍地蔵(あましょうぐんじぞう)】

杉本寺は三体の十一面観音様をご本尊とし、鎌倉・坂東三十三観音霊場第一番札所である鎌倉最古の寺院です。尼将軍地蔵は本堂にご本尊と一緒に祀られています。本堂に上がって左側に立つ二体のうちの右側です。仏師安阿弥(あんあみ)作といわれています。「尼将軍」は北条政子のことではないかといわれているが定かではありません。尼将軍地蔵は、面長でやや細身の身体のわりに太めの錫杖を持っています。四番の身代地蔵と一緒にお参りするのがよいでしょう。

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第七番・瑞泉寺

【どこも苦地蔵(どこもくじぞう)】

瑞泉寺は1327年、夢窓疎石を開山として創建した寺で、山号の錦屏山は、四季の景色が屏風の絵を見るように美しいところから、名づけられたといわれます。名勝瑞泉寺庭園の手前にある小さな地蔵堂に、どこも苦地蔵尊は祀られています。昔、地蔵堂を守っていた僧が、貧しさのあまり逃げだそうとすると、夢枕に地蔵が現れて、「どこも、どこも」 と告げ、苦しいのはどこにいっても同じだと悟ったという伝承があります。

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第八番・円応寺

【詫言地蔵(わびごとじぞう)】

円応寺は、死後に出会う十王を祀っているお寺で本尊の「閻魔大王像」は、笑っているようにみえることから「笑い閻魔」と呼ばれ、また円応寺で赤ちゃんの名をつけてもらうと丈夫に育つということから「子育て閻魔」とも呼ばれています。詫言地蔵は本堂に入ってすぐ左に安置されています。詫言地蔵にお願いすれば、本人に代わって閻魔大王にお詫びして下さり、閻魔大王のお許しを得ることができるという伝説のお地蔵様です。

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第九番・建長寺

【心平地蔵(しんぺい じぞう)】

建長寺のある谷は、もとは処刑場で地獄谷と呼ばれ、建長寺が建立されるまでは、その鎮魂のために創建された「心平寺」がありました。「心平寺地蔵堂」と言われる建物は、横浜の三渓園に移築されています。建長寺の本尊が地蔵菩薩であるのは、心平寺の本尊が地蔵菩薩であったからといわれています。現在は仏殿の向かって右手奥に並んでいる、千体地蔵と一緒に安置されています。御朱印をもらう際には、十番札所の済田地蔵の分とあわせて、お願いするのがよいでしょう。

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第十番・建長寺

【済田地蔵(さいた じぞう)】

地獄谷で済田左衛門という者が無実の罪で斬首されようとしたところ、日頃信心していた地蔵の小像を髻(もとどり)の中に納めていたので、命が助かりました。その小像はのちに仏殿本尊の地蔵菩薩像の胎内に移されたと伝えられています。この伝説から、建長寺に伝えられる地蔵菩薩の小像は、「済田地蔵」と呼ばれ、現在は、仏殿本尊の胎内ではなく宝蔵に安置され、11月の宝物風入の際に公開されています。

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第十一番・建長寺

【勝上献地蔵(しょうじょうけんじぞう)】

建長寺内3つめの地蔵尊は建長寺奥地に位置する半僧坊にあります。建長寺の総門からおよそ徒歩30分ほどかかります。法堂の池を回り込み、半僧坊へと続く参道へ向かいます。鳥居を二つくぐれると長い階段へと到着しここから250段余りの階段を登った先に半僧坊があります。頂上からの景色は抜群です!半僧坊から天園ハイキングコースへと向かう入り口に地蔵堂があり、ここに勝上献地蔵さまが祀られています。

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第十二番・浄智寺

【聖比丘地蔵(ひじりびくじぞう)】

浄智寺の地蔵菩薩坐像(聖比丘地蔵)は、京都六波羅蜜寺の運慶作と伝わる地蔵菩薩坐像に姿形が似ているといわれ、鎌倉時代後期の彫刻と考えられています。現在鎌倉国宝館に寄託されているので、浄智寺で拝むことはできません。御朱印は拝観口の裏手側、拝観順路とは反対方面にある書院の横の庫裏で頂けます。鎌倉五山第四位である浄智寺は見どころも多く風情溢れるお寺です。ゆっくり拝観してから御朱印をいただきましょう。

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第十三番・円覚寺正続院

【手引地蔵(てびきじぞう)】

正続院(しょうぞくいん)は、円覚寺の開山無学祖元の塔所(開山塔)です。境内には国宝の舎利殿もありますが、普段は非公開です。こちらの舎利殿は、元の舎利殿が1563年の火災で焼失した後、西御門にあった尼寺太平寺の仏殿を移築したものですが、我が国最古の禅宗様建築物といわれ、国宝に指定されています。普段は手引地蔵も拝むことはできません。御朱印は円覚寺拝観口のお隣にある納経所でいただきます。

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第十四番・円覚寺佛日庵

【延命地蔵(えんめいじぞう)】

佛日庵は円覚寺の参道を奥に進むと見えてくる茅葺き屋根の建物で、北条時宗をまつる開基廟です。円覚寺境内の塔頭で、拝観時にお抹茶を楽しむこともできます。延命地蔵は、本堂にお祀りされている佛日庵のご本尊です。小振りな地蔵菩薩坐像で南北朝時代のものです。また開基廟の中には、十一面観音坐像(鎌倉観音霊場第三十三番)が安置してあります。御朱印をいただく時には地蔵尊の御朱印と伝えましょう。

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第十五番・海蔵寺

【岩船地蔵(いわふねじぞう)】

JR横須賀線ガード近く亀ヶ谷坂の入口に、岩船地蔵堂があります。管理をしているのは海蔵寺です。源頼朝と北条政子の娘である大姫の守本尊である岩船地蔵尊が祀られています。当時石造地蔵尊は縁の下に置かれ、その光背が舟形であることから、岩船地蔵の名の由来となっています。堂が建て替えられたときに木造地蔵尊が安置され、石造地蔵尊はその奥に安置されています。御朱印は海蔵寺でいただきます。

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第十六番・浄光明寺

【網引地蔵(あみひきじぞう)】

浄光明寺は、1251年、北条長時(のちの六代執権)によって再興された真言宗の寺で、足利尊氏・直義兄弟にゆかりのある寺です。網引地蔵は市指定文化財にもなっていて、漁師の網に懸かり海から引き上げられたとの伝承から網引地蔵と呼ばれています。阿弥陀堂の先の裏山へと続く階段をのぼると柵で囲われたやぐらがあり、その中に安置されています。阿弥陀堂は木・土・日・祝のみ拝観可。8月は拝観休止です。

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第十七番・浄光明寺

【矢拾地蔵(やひろいじぞう)】

浄光明寺は、足利尊氏・直義兄弟にゆかりのある寺です。矢拾地蔵は、阿弥陀堂のとなりの収蔵庫に阿弥陀三尊の左脇に安置されている立像です。ある戦で、矢が無くなってしまった義直のところへ矢を拾い集めた小僧が現れたのですが、それは義直が日頃から信仰していたお地蔵さまだったため、矢拾地蔵と呼ばれるようになったと伝えられています。阿弥陀堂は木・土・日・祝のみ拝観可。8月は拝観休止です。

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第十八番・寿福寺

【地蔵菩薩立像(じぞうぼさつりゅうぞう)】

鎌倉五山第三位の寿福寺。1200(正治2)年、源頼朝の妻・北条政子が頼朝の死後、頼朝の父である義朝の旧邸跡に明庵栄西を招いて創建した寺で13世紀後半になって禅宗の寺院となりました。寿福寺は参道のみ拝観可能で境内には入れません。また、地蔵菩薩立像は鎌倉時代のもので、頭部から蓮華座までを一木で彫り出した珍しい像で現在は鎌倉国宝館に寄託されています。

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第十九番・東漸寺

【日金地蔵(ひがねじぞう)】

日金地蔵(木造地蔵菩薩半跏像)は、もとは鎌倉の雪ノ下にあった松源寺の本尊であったが、神仏分離令によって長谷寺に移され、さらに転々とした後、大正時代に横須賀の東漸寺に安置されたと伝わっています。伊豆の流人だった源頼朝が日金山東光寺の地蔵菩薩を信仰し、源氏再興を祈願したが、のちに鎌倉を本拠とした頼朝は、松源寺を建立して、日金山の地蔵尊の模刻を安置したのだと伝えられており、それが日金地蔵だといわれています。像は岩の上に上半身を直立し、右手に錫杖(つえ)左手に宝珠(たま)を持ち、右足を左ひざにおく半跏の姿をしています。

◇名称:松得山東漸寺
◇宗派:浄土宗
◇住所:神奈川県横須賀市武2-12-13
◇拝観:概ね9:00~16:00
◇電話:046-856-0221
◇アクセス:YRP野比駅から京急バス「野2」他に乗車、「南武入口」下車・徒歩約2分

第二十番・極楽寺

【導き地蔵(みちびきじぞう)】

極楽寺の門前、一見民家のような御堂があります。「極楽寺地蔵」とも呼ばれているこの地蔵堂は、1267年(文永4年)、極楽寺の忍性が運慶作の地蔵像を安置したのがそのはじまりといわれています。古くから、この地蔵の視野の中に入る場所では、子どもたちに災難が起きないといわれ、子育てに霊験あらたかだとされたことから「導地蔵」と呼ばれるようになりました。

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第二十一番・極楽寺

【月影地蔵(つきかげじぞう)】

極楽寺から徒歩5分ほど、稲村ヶ崎小学校を通り過ぎ奥の住宅地にある小さな堂が月影地蔵蔵です。もとは月影ヶ谷の阿仏尼邸にあった地蔵像をこの地に移したのでこの名があると伝えられています。月影地蔵尊はお堂の真ん中に安置されている木造地蔵菩薩立像で、子供達の健やかな成長を願う地蔵として、近隣の人々に守り継がれた地蔵様だそうです。

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第二十二番・光明寺

【網引延命地蔵(あみびきえんめいじぞう)】

鎌倉幕府の第4代執権北条経時が然阿良忠を迎えて開いた浄土宗の大本山である光明寺。その本堂の右方向には、正中2年(1325)作の銘のある石像(石造地蔵菩薩坐像)、綱引延命地蔵が安置されています。かつて、光明寺裏山の小坪切通の鎌倉側の入口のやぐらにあったものを移したそうです。光明寺裏山からは、鎌倉の雄大な海が広がります。

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第二十三番・延命寺

【身代わり地蔵(みがわりじぞう)】

専蓮社昌誉能公を開山として、時の執権北条時頼の夫人が建てたと伝えられる延命寺。双六の勝負で旗色の悪かった夫人を救ったといわれる「身代わり地蔵」は、双六盤の上に置かれています。本堂には右に弥陀三尊・両大師、中央に御本尊である阿弥陀如来坐像と聖観世音菩薩立像、左に身代り地蔵尊があります。鎌倉三十三観音第11番札所でもあります。

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第二十四番・安養院

【日限地蔵(ひぎりじぞう)】

ツツジで有名な安養院は、北条政子が亡き夫源頼朝の冥福を祈って長谷笹目ヶ谷に建立した祇園山長楽寺が前身であると伝えられています。安養院は、政子の法名から取られたものです。石造地蔵菩薩像は、弘法大師作と伝えられており、日を限って祈願すると願いが叶えられる、といわれる地蔵菩薩です。ご朱印が最後であれば「結願」の押印をしてもらえます。

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